天皇の執刀医「心臓病はここまで治せる」

仕上げの正確さが危険な感染症を防止

 医学の発展によって抗生物質が進化した現在でも、「感染症対策」は欠かせません。手術自体がまったく問題なく終わっても、細菌に感染するとさまざまな合併症を引き起こし、命を失ってしまうケースが少なからず存在するからです。とりわけ心臓外科では、処置した傷がしっかり治るまでの感染対策が極めて重要です。

 専門家に話を聞くと、傷口での院内感染を引き起こす原因の100%近くが「MRSA」と呼ばれるメチシリン耐性黄色ブドウ球菌だといいます。MRSAは通常の抗生物質が効かないので、感染すれば確実に創部感染(SSI)に拡大して、閉じたはずの傷口がパカッと開いてしまいます。そうなると、敗血症を起こして3分の1が亡くなってしまうほど深刻な感染症です。

 MRSAは患者がもともと保菌している場合もあれば、外科医の手から侵入するケースもあります。手袋をはめて手術しているのだから、細菌は侵入しないだろうと思うかもしれませんが、手術で切った骨を触っているうち手袋に穴が開き、そこから細菌が落下することもあるのです。

 私にも、かつて感染症で2人の患者さんを失った苦い経験があります。いまの順天堂大に着任した直後の02年、術後の傷の治りが悪くて苦労している患者さんがいました。私が着任する前に手術を受けていた患者さんで、担当医も原因が分からず首をかしげていました。後になって判明したことですが、実はその患者さんはMRSAに感染していたのです。

 そうとは知らなかった担当医にも感染。それが分かるまでの間、比較的簡単な手術を任せたり、助手を務めてもらっていたため、その担当医が携わった3人の患者さんも感染してしまいました。

 最初の患者さんはアッという間に、2人目の患者さんはリハビリを開始する段階まで回復していたのに亡くなられました。最後のひとりはギリギリで食い止めることができましたが、われわれスタッフの間に大きなショックが広がりました。

 もちろん、亡くなった患者さんの執刀医はとりわけ深い傷を負っています。そのとき、責任者である私は「こいつを再生して一人前にできなければ、自分にも先はない」と思い、その時点でできうる限りの感染症対策をさせ、除菌が完了した2週間後から手術にも参加させました。いま、その担当医は独り立ちして、最新の治療部門の第一人者として活躍中です。

 こうした苦い経験が、われわれの感染症対策をより高めることにつながっています。手洗いなどの基本的な予防対策を改めて徹底し、感染症対策の専門家にアドバイスをもらいながら、当時は保険が適用されなかったMRSA用の抗生物質も、費用を病院が負担して採用しました。

 そして、何よりも「創傷治癒」=「傷を治す」という外科医の原点に立ち返ったことが重要でした。正確に縫合する、傷口を隙間なくぴったりと縫い合わせるといった“仕上げの正確さ”を追求。術後に傷口周辺の皮膚の皮下層にドレーン(誘導管)を入れて吸引をかけ、傷が治るメカニズムを促進させる処置を行う工夫も重ねました。

 その結果、それまでは2%程度起こっていた感染症をほぼなくすことができたのです。いま手術に携わっている看護師のほとんどは、「感染症で傷が開いてしまう」という経験はしたことがありません。われわれの感染症対策チームは世界の第一線をリードしているといっていいでしょう。

 次回は、感染症対策についてさらに詳しくお話しします。

天野篤

天野篤

1955年、埼玉県蓮田市生まれ。日本大学医学部卒業後、亀田総合病院(千葉県鴨川市)や新東京病院(千葉県松戸市)などで数多くの手術症例を重ね、02年に現職に就任。これまでに執刀した手術は6500例を超え、98%以上の成功率を収めている。12年2月、東京大学と順天堂大の合同チームで天皇陛下の冠動脈バイパス手術を執刀した。近著に「天職」(プレジデント社)、「100年を生きる 心臓との付き合い方」(講談社ビーシー)、「若さは心臓から築く 新型コロナ時代の100年人生の迎え方」(講談社ビーシー)がある。