独白 愉快な“病人”たち

元俳優 山本陽一さん(45) 劇症心筋炎 ㊦

山本陽一さん
山本陽一さん(C)日刊ゲンダイ

 退院後、医師から「ダンプカーに軽自動車のエンジンを積んでいると思ってください」と言われました。劇症心筋炎で心臓が半分死んでしまいましたからね。以前は「筋肉番付」に出演していたくらいで、体力には自信がありました。まさか自分が、風邪のような症状から死にかけるなんて思いもよらなかった。

 入院中も咳がきっかけで心臓発作を起こし、目の前が真っ暗になったことが何度もありました。ナースコールを押した後、意識を失い、看護師さんが来た頃には瞳孔が開いていたと……。目をつむったらこのまま目が覚めないんじゃないかと思って、まぶたを閉じることが怖くなりました。

 劇症心筋炎は救命率が50%。進行が速くて、死んでから病名が判明する場合も多いそうです。それだけに専門医に出会えたことは幸運でした。

 ベッドで起き上がれるようになったのは入院20日後。それからはリハビリです。病院の窓からビッグマックの看板が見えてウマそうでね。仮退院の時は内緒で食べちゃいましたよ。

 退院後は、食事制限と日課は散歩。暴飲暴食生活を改め、たばこも酒もやめました。でも、仕事復帰までの1年間、時間や家族といった僕の宝物が、指の間から砂のようにサーッと崩れ落ちていくように感じました。入院費は医療保険で何とかなりましたが、1年は無職。不甲斐ない気持ちでいっぱいでしたね。家計を支えてくれた妻には感謝しています。1年後の舞台復帰では、楽日の挨拶でさまざまなことを思い出し、涙が出ちゃいましたね。

 心臓を病んでから特徴的なのは、塩気のある物を食べるとひどく喉が渇くようになったこと。つまみ類はダメ。刺し身も醤油をつけずに食べます。どうしてもラーメンを食べたい時は、食後に水を1リットル飲む。今も常に1リットルのペットボトルを持ち歩いています。

 あれから3年経ち、離婚をきっかけに芸能界を卒業しました。

 建設業を営む知り合いのところで、解体作業や土木の肉体労働に1年従事し、今は実家に戻り、家業の金属加工会社を継いでいます。アクションやむちゃぶりに応えられる体じゃないし、病気によって「ここで生まれ変わろう」と吹っ切れた。

 芸能界の仕事はいずれ卒業しようと考えていました。20代の時にも空いた時間に歯科技工士の手伝いをしたり、結婚を機に一度、ビデオ店に社員で勤めたこともありました。「あれっ?」って言われても、「はい、山本陽一です。ついでに僕の作品も見てください!」って言ってね。

 でも、別に恥ずかしいなんて気持ちは全くない。過去の栄光に執着しているより、堂々と働いている方がいいと僕は思っています。
 今の仕事は金属加工で、注文に応じて重機のシリンダーからミリ単位のボルトまで、工場さんに作ってもらっています。
 中間業者なので板挟みになることもありますが、そんなストレスにこの心臓も耐えてくれて、何とか過ごしています。
 ストレスといえば、この前の「爆報!THEフライデー」のテレビ出演のオファーの時でしょうか。「あの人は今」特集で、僕のこれまでの人生を報じるというものだったんですが、取材を受けるかどうか悩んで、一時不眠になりました。

 でも、僕を応援してくれた人たちに報告するのが義務。最後のけじめとして、現在の仕事姿をちゃんと映すことを条件に引き受けました。

 今でも「芸能界に戻れば?」って言われることはあります。でも、「やるだけやって満足しましたし、今これでメシ食っていこうと腹決めてるんで」って答えています。こうしてハッキリ言えるのは、病気のおかげかもしれません。

▽やまもと・よういち 1969年生まれ、大阪府出身。映画「パンツの穴」で主演デビュー。「夏・体験物語2」や「な・ま・い・き盛り」などの青春ドラマで活躍後、ドラマや舞台で活躍。12年に芸能界を引退、現在は家業の金属加工会社を継ぎ、トラックで関西を奔走している。