介護の現場

「自宅で面倒を見続けたら、私たち夫婦は破綻すると思いました」

「あなた、どちらさまですか」

 神奈川県横浜市郊外の有料老人施設に入居している父(92歳)を見舞うとき、娘の石尾輝子さん(仮名、63歳)は、いつもこう言われる。

 石尾さんの父親は、昨年の暮れに老人ホームに入居したばかり。それまでの3、4年間、自宅で父を介護していた石尾さん夫婦の格闘ぶりは涙ものだった。

 父は年間数百億円単位の収益を出す会社の創業者だった。

 30年ほど前、横浜市内の広い敷地内に豪華な2世帯住宅を建設。父親夫婦と、長女である石尾さん夫婦が住むことになった。

 盆栽作りを趣味にしていた父親は、87歳前後から足がやや不自由になり、認知症が始まった。それでも3歳年下の妻が面倒を見ていた。

 しかし、父が90歳のときに、心不全で妻が他界。病院で亡くなる寸前、父を病室に連れていったが、妻を見て、「この女は誰だ?」と言うほど認知症が進んでいた。

 一日中、自宅のテレビ周辺をウロウロ。外を徘徊するような父ではなかったが、同居した娘夫婦に対する言葉はいつも高飛車だった。

「早く、ご飯を作れ!」
「風呂がぬるいぞ!」
「水持ってこい、早く、早く!」

 会社のトップだった時代の癖がとれないのか、常に命令口調で、しかも超わがままである。

 気の休まる暇がなく、父が隣に座っているだけで、石尾さん夫婦のストレスは頂点に達していた。

 嫌がる父を何とか説得して、デイケアセンターに通わせることにした。

 朝方、自宅にマイクロバスが迎えに来ると父親は、スーツに着替え、ネクタイを締めた。

「現役の頃は毎朝、会社の専用車が迎えに来ていたものですから、それと勘違いをしているのでしょう。右手に空のカバンを持ち、ネクタイは必要ないと言うと、激怒していました」(石尾さん)

 わがままもそうだが、もっとも苦労したのは排泄の処理だった。居間、寝室、応接室、キッチン、どこの部屋でもドアを開けると、その場所がトイレと勘違いして排泄をしてしまう。

 家中に漂う悪臭。きれいに清掃し、汚したパジャマを着替えさせ、風呂に入れるという介護が一日に2回、3回と続く。

 石尾さんのご主人も一流商社の定年退職組で、高額な年金支給があり経済的には不安はない。

 退職後はカルチャーセンターなどに通ってフランス語や書道を習っていた。だが、父を介護する石尾さんの苦労を見て、すべての趣味をあきらめた。

 毎日の風呂、トイレ、3度も4度も要求してくる食事。すでに家での介護は限界を超えていた。

「老人ホームに入れましょう」と決断し、父を説得するまで半年間を費やした。月の入居費は約30万円弱。半ばダマすような格好で老人ホームに連れていった。個室のベッドに寝かせて静かに帰ろうとすると、父はパジャマ姿のまま、夫婦の後を追ってきたという。

「寂しい思いがありました。でもこのまま、自宅で父を介護し続けていたら、私たち夫婦も破綻すると思ったのです」

 自らに言い聞かせるかのように石尾さんは強い口調でそう語った。