独白 愉快な“病人”たち

日本ブラインドサッカー協会理事長 釜本美佐子さん (73) 網膜色素変性症 ㊤

(C)日刊ゲンダイ

 50歳を過ぎた頃から、時々目が痛くなることがありました。目の奥がキリキリ痛んで、1時間ぐらいしたら治まる。思い起こすと、それが最初の自覚症状でした。

 目にホコリが入り、まばたきをしても取れません。眼科に行ったら、「網膜色素変性症です。いつの日か失明するでしょう」と診断されました。

 でも、当時の視力は1・2。「将来的に失明」なんて言われても、いまいちピンとこなかった。それからはドクターショッピングです。個人の専門医や大学病院などいろいろ受診しましてね。結局、見立ては同じ。これは受け入れるしかないと、腹をくくりました。

 診断されてから3年経ち、ふと手元を見ると、人さし指、中指、薬指の3本の指しか見えない。視界が狭まる“視野狭窄”に気づいた瞬間でした。視力は0・7だけど、視野は10度以下。53歳で、視覚障害等級の6段階のうち「3級」の認定を受けました。病気に気づいてから、ほんの数年で急速に病気は進行していたんです。

 それから3年後、これまでにない目の痛みに襲われました。その日は金曜で、近くの総合病院に問い合わせたらけんもほろろ。眼科の救急なんて相手にされません。でも、この目の痛みは尋常じゃない! つてをたどり、所沢の国立リハビリテーションセンターを受診。病院に着いたのは夕方の4時ぐらい。「眼圧が59にまで上がっています!」と言われて、意味も分からず眼圧を下げる点滴を受けました。

 眼圧は通常10~20の間ですから、59というのは相当高い。狭隅角緑内障という急性の緑内障でした。目の表面を覆う房水が出る腺が詰まる病気で、持病とは別もの。誰もがなりうる加齢性の緑内障でした。

 点滴で眼圧は59から通常値の20まで下がり、ただちに手術。レーザーメスで房水が出る腺を切ります。手術自体は10分ほどですが、3~4時間も放置したら、下手すると失明するほど緊急度の高いものでした。週明けまで待っていたら完全にアウト。50代で全盲になるところでした。

 それからしばらくして、両目の白内障の手術も受けました。私の場合、加齢による不具合がすべて目に重なって出てきたんですよね。

 もともと日本交通公社(現JTB)の海外ツアーコンダクター第1期生として世界140カ国以上を飛び回った後、フリーのツアコンをしていたのですが、病気の診断を受けてからモスクワツアーに出掛けた時のこと。もともと薄暗い空港が、夜盲症でさらに鉛色に映り、入国手続きの列を間違えるほどになっていた。もう案内することはできないと思い、このツアーを最後に、25年続けた海外ツアコン人生に終止符を打ちました。60歳でした。

 こうしている間にも、持病の網膜色素変性症は次第に進行し、英文を読むにも単語1個しか視界に入らず、声に出して読むとつかえる。真っすぐ字も書けない……。パソコンは読むのも打つのも困難になりました。
「音声で読んでもらったらパソコンで苦労しなくていいのに」と障害者仲間に言われ、69歳で視覚障害用のパソコン教室に通うことにしました。手続きのために検診を受けると、1級障害と認定されました。点字は覚えませんでしたね。あんな細かい点を指でなぞって読むなんて、区別がつかないもの。

 とはいえ、目以外はとっても健康なので1人暮らしを続けています。東京都障害者スポーツ大会の全盲40歳以上女子の部で、50メートル走とソフトボール投げで2年連続優勝しているんですよ。(つづく)

▽かまもと・みさこ 1940年京都府生まれ。日本交通公社の海外添乗員第1期生。網膜色素変性症と診断されたのを機に、視覚障害者団体の理事を歴任。実弟は日本サッカー界のレジェンド釜本邦茂氏。02年のブラインドサッカー協会設立と同時に理事長就任。11月に東京で開催される世界選手権に向けて現在、ボランティアを募集中。詳しくは日本ブラインドサッカー協会HPへ。