独白 愉快な“病人”たち

落語家 林家こん平さん (71) 多発性硬化症 ㊦

(C)日刊ゲンダイ

 倒れてから病名が分からなかった半年間、巷では重病説が流れていたそうです。この多発性硬化症は、まあ重病ですね。神経の間が阻害されて、筋肉が硬直したり、体がしびれたりで、視界が狭まる。原因不明で、明確な治療方法がない。

 私の場合、右手のしびれと声が出ないことが大きかった。今でも声はあまり出ませんし、ハッキリ発音できないところもあり、次女にフォローしてもらいつつ会話をしています。座っているのもちょっと難しいので、背中にクッションを入れて姿勢を正して取材を受けているんですよ。落語界一“元気”が売りでしたから、思ってもみませんでしたよ。

 治療はリハビリだけなので、何でもやりました。病院から指導されたリハビリ以外に、健康器具や頭の体操など、いいと聞けば何でもチャレンジしましたね。

 でも、やっぱり一番のリハビリは大好きな「仕事」と「卓球」。入院中も不思議なもので、「こん平師匠!」って言われると、シャキッと元気な「こん平ちゃん」になるんです。看護師さんにもお医者さんにも、つい芸人として接しちゃう。かえって本名の「笠井さん」で呼ばれると、聞き逃してしまいます。

 右手がしびれるので箸は左手を使っているし、日常生活も不便。でも、卓球ならできたんです、これが!
「らくご卓球クラブ」を小遊三師匠と1986年に立ち上げてましてね、毎週月曜日の午後がクラブの練習時間で、そこに行くとみんなが「監督」「師匠」って呼んでくれる。すると、芸人魂に気合が入る。体の可動域が広がり、右手にラケットを持ってサービスだって打てるんです。サービス精神旺盛でしょ!

 普段はベッドから起きるのだって難儀なのに、娘の迎えが遅いと自分でかばんにラケットを詰めて、娘を迎えに行くぐらい。卓球のためならアクティブになれる。今は足の調子が悪く、通院中で卓球を休んでいますが、再開できるように頑張りたいと思っています。

 4年前に「チャランポラン闘病記」という本を出版し、出版記念の会見をしましてね。ろくに話をできない私でも、皆さんが待っていてくれたのは本当にうれしかった。

 フラッシュがたかれると目が輝いて、気合が入る。「チャラ~ン!」とポーズをとると、曖昧だった記憶がよみがえってくるんです。だって、倒れた当時のことなど覚えていなかったのに、取材中は、ペラペラ話せる。自分でも不思議です。なんだかスイッチが入るんですよ。

 娘に言わせると、フラッシュや照明の光が神経に刺激を与えて、神経が再生されるんじゃないかって。以来、娘はリハビリを兼ねて体に無理のかからない範囲で、コンスタントに仕事を入れてくれています。今じゃ娘とコンビ芸ですよ。

 もともと糖尿の症状もあるので、食事改善をしていますが、出来合いのものが嫌いでね。病院食はあの器についた消毒のにおいが耐えられない。レトルトの糖尿病食を家でそのまま出されても食べる気にならない。糖尿でも食だけは譲れないんです。

 それで、娘は温野菜を足したり糖尿病食をアレンジしたりして、食べさせてくれています。特に三女が食事に気を使い、毎日作ってくれています。こうやってわがままできるのも、実の娘たちだからですが……。

 私の病気をきっかけに、次女はマネジャーから始まり、イベント企画会社を起業して生活が一転しました。人生を変えてまでサポートしてもらえる家族がいるから、芸人を続けられているんですがね。でも、“ありがたい”なんて言うと、ご隠居さんみたいに年とっちゃいそうで。人前では、「自分のおかげです!」なんて強がってますよ。

 最近、私もお世話になっている国立精神・神経医療研究センターの山村隆先生が、多発性硬化症の新薬を発表したんです。今まで治療薬がないといわれてましたから、これはとても画期的なこと。山村先生には「実験台でもいいので、私にもぜひ試させてください」と真っ先に手を挙げています。多発性硬化症が治る日が来るかと思うと、ワクワクしますね。

▽はやしや・こんぺい 1943年新潟県生まれ。中学卒業と同時に初代林家三平に師事、20歳の若さで二つ目、29歳で真打ちに昇進。66年から「笑点」に出演。2010年に多発性硬化症の闘病をつづった「チャランポラン闘病記」(講談社)を上梓。現在は高座復帰に向けてリハビリに努める傍ら、次女と共にイベント出演などを行っている。