独白 愉快な“病人”たち

元サッカー選手・元Jリーグ専務理事 木之本興三さん (65) グッドパスチャー症候群 ㊤

(C)日刊ゲンダイ

 僕の人生は、自分で生きてきた時代、機械で生かされた時代、そして車椅子の時代と、3つの時代に分かれているんです。

 今は、歩くこともできず、ひとりでは何もできない。病気を抱えて生きていくことの精神的ダメージは大きいですよ。治らないわけですから。

 僕は、義務教育の9年間は無欠席。千葉高校、東京教育大学(現・筑波大学)、古河電工でサッカーをやっていた。体には非常に自信があったんです。ところが26歳の春、体育館でサッカーの練習をしていた時に痰を吐いたら、血で真っ赤。これはおかしいと千葉大学医学部で検査を受けると、肺のレントゲン写真は真っ白でした。

 肺に菌が入ったんだろうということで、抗生物質を処方されました。それで、肺はきれいになったんです。医師は「体育館のホコリが悪かったのかもしれない」などと言いました。

 ところが今度は尿が真っ赤。腎臓を調べると数値が異常に悪い。それでもなかなか原因が分からず、1カ月ほど検査を繰り返した結果、「グッドパスチャー症候群」と診断されました。

 この難病の患者は僕で国内13例目。そして12例目まで、つまり全員が5年以内に亡くなっていると言われました。死の宣告と同じです。治療は肺を摘出するか、腎臓を2つとも摘出するか。肺を取れば一生寝たきりで、腎臓を取れば週3回の人工透析。

 その時、結婚3カ月目で、家内は子供を身ごもっていました。「こんな病人と一生……」と思い、離婚を考えました。ところが、家内の母親が「今までサッカー、お酒、たばこと好きなことをやってきた。それらはできなくなるかもしれないけど、庭の四季の移ろいを見て生きる道もある。生きているだけで価値があるのだから、親子3人でがんばりなさい」と言ってくれたんです。それで僕は、腎臓を摘出することを決めました。

 ところがね、「人工透析をやっても社会復帰できる」と医者は言うけど、実際は大変でしたよ。僕の場合、一定量の血液中に含まれる赤血球の割合を示すヘマトクリット値が10%を切るようになった。正常値は40~52%なので、極度の貧血。10メートル歩くのが精いっぱいです。

 人工透析は月、水、土の週3回、1回5時間かかる。人工透析が行われるようになって5~6年目くらいの頃で、技術水準が低く、血中の老廃物をこす透析膜が手巻きのコイルでした。手巻きがうまくいかず、透析中に血圧がゼロになって意識を失うことが、1カ月に1回はありました。何度、さんずの川を渡りかけたことか……。

 仕事は手術の翌年、古河電工健康保険組合の職員として復帰しました。最初は、透析のない火・木・金の午前10時から午後3時まで。僕はサッカーが認められて古河電工に入ったのだけど、病気でボールを蹴ることはできなくなってしまった。でも、ありがたい会社で、幹部が「しばらくは(本格的復帰を)待ってやれ」と言ってくれたんじゃないかと思っています。

 実は、僕の母親が占い師に「(息子は)5年で死ぬ」と言われたらしいんですよ。僕自身、そういう人生かなと思って、人知れず庭先で泣いたりしていました。でもね、高校、大学、古河電工と一緒にボールを蹴った仲間が心配してくれて、物心両面で助けてくれた。今から思うと、サッカーの仲間や家族に、本当に救われたんです。

 そうやって過ごしているうちに、発症から5年が経ちました。同病の方々は5年以内で亡くなっている。でも、僕は生きている。では、どうして助かったかというと、やっぱりサッカーなんです。ずっとサッカーをやっていたおかげで、体力があった。それが、腎臓2個を取った後の体の“激変”に耐えられた。やっぱり、ここでもサッカーに救われたんです。

 この5年目を迎えた年に、2つの朗報が届きました。

(次回につづく)

■グッドパスチャー症候群 肺と腎臓が侵される自己免疫疾患。肺と腎臓が互いを攻撃して機能を失う。無治療の場合、ほとんどが死に至る。

▽きのもと・こうぞう 1949年千葉県生まれ。古河電気工業でサッカー選手として活躍。難病で引退後は、サッカーのプロ化、Jリーグ創設を牽引した。2002年日韓ワールドカップの際は、日本サッカー協会強化副本部長の立場で日本代表をサポート。元Jリーグ専務理事、元日本サッカー協会常務理事。著書に「日本サッカーに捧げた両足」。