独白 愉快な“病人”たち

元サッカー選手・元Jリーグ専務理事 木之本興三さん (65) バージャー病 ㊦

(C)日刊ゲンダイ

 人工透析を受けるようになって40年。透析は年間医療費が600万円くらいかかりますからね、40年といやぁ、2億4000万円。僕は国宝級の体なんですよ。なんて冗談で言っちゃうくらい、医療費に世話になっていますね。

 その透析ですが、26歳から始めて5年目で2つの朗報がありました。

 ひとつは、これまで血中の老廃物を濾す透析膜は手巻きのコイル式だったのが、コンピューター制御のグラスファイバー式に変わったこと。それまでは人の手でやっていたので、水を抜かれすぎて血圧がゼロになり、意識を失うことがしょっちゅうあったんです。それが、安定して水や老廃物を抜いてもらえるようになった。

 もうひとつは、血液を濃くし、副作用がほとんどない造血剤が開発されたこと。10%を切っていたヘマトクリット値(一定量の血液中に含まれる赤血球の割合。正常値は男性で40~52%)が、30%くらいまで上がりました。

 これら2つの朗報によって、本当の意味での社会復帰が可能になったんです。

 サッカーをする側から「見る側」へと変わった転機は、1976年です。グッドパスチャー症候群で腎臓摘出の手術を受けた翌年から古河電工健康保険組合に籍を置いていましたが、上から「今の古河では雇いきれない。なんとか自分で考えてやってくれないか」と言われ……。そこで、ちょうど同時期に話があった日本サッカーリーグの事務局長就任の誘いを受けることにしました。

 余談ですが、この事務局長について、古河電工の職場の部長が、当時の日本サッカー協会の総務理事に「木之本というのはああいう体だけど、優秀だから案外やれるんじゃないか」とお願いしてくれていたそうです。そのことを知ったのは、5~6年前。日本のサッカーを変えたいと行動してきましたが、自分ひとりでやってきたというのは実に浅はかな考えだった。先人たちが道をつけてくれていたんですね。

 サッカーを見る側に変わって気がついたのは、デコボコのグラウンドや客の入っていないスタジアム。これでは、日本のサッカーは強くなれないと思いました。

 事実、日本サッカーはメキシコ五輪で銅メダルを取ってから、国際試合で勝てず、ワールドカップやオリンピックに一度も出ていなかった。いい人材をサッカー業界に招き、世界と戦えるまで強くなるにはどうすればいいか? 考えた末に出た答えは、サッカーのプロ化でした。

 日本サッカー協会の幹部は、アマチュアスポーツの総本山でもある日本体育協会の幹部。なかなかプロ化は言い出せないという状況でしたが、奮闘の甲斐あり、93年にJリーグが発足。チェアマンが川淵三郎で、私は常務理事でした。

 グッドパスチャー症候群に続き、それまで聞いたこともなかったバージャー病だと分かったのは2002年です。日韓ワールドカップで、私は日本代表団長を務めていました。仙台でのトルコ戦の後、寿司屋で軽く飲んでいたら、ちょっと前から右足の中指に出来ていた血マメが爆発!

 普通の血マメが潰れた痛みとは全く違う。熱い火箸をグーッと押し付けられたような痛みが延々と続く。右足を引きずり、千葉大の皮膚科になんとかたどり着き、診てもらったらバージャー病という診断。右足中指は切断となりました。

 右足を切断したのは07年、左足は08年です。ここまでの治療の記憶は、本当に空白なんです。痛みを取るためにモルヒネを打ち、頭は普通とは違う状態になっていました。再生医療やいろんな治療を受けましたけど……錯乱状態ですよ。

 足を切断する時、「命か足か」と医師に言われたんです。本音では「命はいらない」と言いたかった。これが情けなくてね。「足でお願いします」と言っていました。

 だけどやっぱり、生きていてよかったと思えますよ。時間というのはすごく大切。今日、明日、あさってと辛抱したことで、仕事や友達など、生きていこうと思えるものにめぐり合えた。若い人で人生に悩んで命を絶つ人がいるけど、俺に会わせてくれればいいのに、と思うね。

■バージャー病とは 四肢の末梢血管に閉塞を来す。血液が十分に供給されず、患部が壊死し、切断になる。原因不明の難病。

▽きのもと・こうぞう 1949年、千葉県生まれ。古河電気工業でサッカー選手として活躍。難病で引退後は、サッカーのプロ化、Jリーグ創設を牽引した。2002年日韓ワールドカップの際は、サッカー協会強化副本部長の立場で日本代表をサポート。元Jリーグ専務理事、元日本サッカー協会常務理事。著書に「日本サッカーに捧げた両足」。