独白 愉快な“病人”たち

演歌歌手・松原のぶえさん(54) 腎臓病(腎移植)

松原のぶえさん
松原のぶえさん(C)日刊ゲンダイ
人工透析でも悪化。義妹が弟の背中を押して腎移植を受けられた

 8年前の3月、46歳のときです。幼少の頃から腎臓が悪かったのですが、その時は2カ月も風邪が抜けず、寒けが続きました。咳をすると心臓が苦しく、声が出にくくなった。次第に横になって眠ることができなくなり、ベッドの背に寄りかかり、枕を前に抱えて座りながらしか眠れなくなりました。病名は肺炎と腎機能障害。あと1日手当てが遅ければ脳機能障害を起こすか、死んでいたと医師に言われました。

 その時の入院は2週間ほど。人工透析を断り、半年はなんとか投薬治療で過ごしたものの、顔は土気色。食べると体に毒素が回り、肌は湿疹だらけで夏でも長袖で隠すしかない。

 次第に食べても全部吐いてしまうようになり、もう透析せざるを得ない状態になりました。おかげでどんどん痩せていき、かつて同じ事務所だった演歌歌手の小金沢昇司くんに「デビュー当時に戻ったね」なんてホメられたのもつかの間、気づけば体重は15キロも減って“激ヤセ”の域でした。

 透析を始めると、行く先々で舞台の前に透析を受けなければいけないし、食の制限は地獄でした。水はなめる程度しかとれず、汗をかくと目まいに襲われる。コンサートの後にスタッフと食事に行っても外食は食べられません。周囲には病気のことは一切言っていなかったので、その場にいることもつらかったんです。

 発病から2年、日々節制しても体調は悪化するばかり。

■尿意があることのありがたさに気づいた

 声はますます出なくなるし、歌手を辞めるしかないかと思っていたら、弟から腎臓提供の話がありました。弟は発病当時から腎移植の覚悟をしていたそうで、さらに弟のお嫁さんが「あなたがやらなくてどうするの?」と弟の背中を押してくれました。かけがえのない夫の体にメスを入れることに理解を示してくれた義妹には本当に感謝、感謝です。

 腎移植を受ける際は、適合検査のために手術の前から1週間入院しました。血液型が私はO型、弟はB型なので、B型の腎臓を受け入れられるように抗体を作る必要があったんです。そんな過程を経ていざ手術となっても、健康な弟の体にメスを入れてもいいものかと、弟が手術室に運ばれていくまでためらいましたね。

 手術は8時間。弟の腎臓と私の管をつなぐと尿が出て成功……と思ったら、そこからが問題でした。術後3日間、尿が出ず、皮膚が破れて水が出るんじゃないか、っていうくらいパンパンにむくんでしまって……。

 医師が来るたびに「おかしい」とつぶやいているのが聞こえる。手術は失敗したのかも……と思っていた時、主治医の先生が他の医師の制止を振り切り、点滴の管を全部抜いたんです。すると、数時間後に尿意が戻った。荒療治に見えた施術がきっかけで回復に向かったのです。あのときは、尿意があることのありがたさに気づきました。

 トータル1カ月ほど入院して退院後、最初に食べた外食は焼き肉です。それまでは食事制限でお肉はひと口がやっと。食の喜びが戻ったのは何よりうれしいことでした。

 腎臓は機能していないと硬くなるそうで、1年くらいはいつも脇腹を触って弟の腎臓が大丈夫かを確認していました。また、弟が風邪をひくたびに心配で……。今は臓器提供者のアフターフォローもあるので安心ですが、それでも、もし弟に何かあっても、もらった腎臓は返せませんから心配なんですよね。

 移植から6年。病院では、気を利かせて他の患者さんに会わないようにする“VIP対応”もご提案いただきましたが、一般の方と同じように通院しています。待ち時間は同じ病気の仲間から勇気づけられる貴重な時間になっているんです。私が頑張っていることで、少しでもみなさんを元気づけられたらと思っています。

▽まつばら・のぶえ 1961年、大分県生まれ。79年に「おんなの出船」でデビュー。同年、日本レコード大賞新人賞、日本有線大賞新人賞などを受賞。85年、NHK紅白歌合戦に初出場し、以後6回紅白に出場。新曲「能登みれん」をリリース。