薬に頼らないこころの健康法Q&A

「法学部に進んだのに作家を志望する息子にどう声をかけるべきか」

井原裕 独協医科大学越谷病院こころの診療科教授
井原裕 独協医科大学越谷病院こころの診療科教授(C)日刊ゲンダイ


 都内の私大法学部1年生の息子を持つ父親です。親類縁者に法曹関係者が多く、息子もできれば弁護士になって欲しいと思っています。しかし、息子は高校時代から文芸部で小説や戯曲を書いていたほど、好きなのは文学のようです。大学で、民法総則、刑法、憲法などの勉強が始まりましたが、まったく興味が持てないようです。法の思考に毒される前に、文学部に転科したいと考えていると家内に相談していることも聞きました。確かに、三島由紀夫や平野啓一郎のように法学部出身の作家だっています。自分もそういった道に進みたいのだと思います。どうアドバイスすればいいでしょうか。


 前回は、文学・哲学志望の医学部生でしたが、今度は同じく法学部生です。専門職の家系だと、どうしても安定を志向するので、つい自分たちと同じ仕事を若い人に勧めてしまいます。

 弁護士も安定していますが、司法試験は医者になるよりはるかに狭き門です。それに法律の論理は、合う人と合わない人がいます。法の論理が合う人にとっては、これほど楽しい世界はありません。抽象概念同士を組み合わせ、思考を展開させ、整合性のとれたひとつの世界を構築していくのは、好きな人にとってはたまらないでしょう。世の中には一日中法の論理に浸っていても退屈しない人がいて、そんな人ばかりがロースクールに入ります。それでも簡単に受からないのが司法試験の現実です。

 息子さんの場合、民法総則、刑法、憲法で違和感を覚えたというのなら、法的思考が合わないのかもしれません。ただ、「法律が合わないからすぐ文学」という発想だとしたら少々心配です。法学生が法律を捨てれば、皆、三島由紀夫や平野啓一郎になれるわけでもないからです。

 息子さんはまだ1年生。迷うことに意味があるし、可能性の実験こそが若者の特権です。法学部はつぶしが利く学部です。司法試験が合わなくても、他にいくらでも可能性はあります。法学部では、所定の科目の単位を修得すると、税理士、社会保険労務士などの受験資格が得られます。そのほか、簿記、公認会計士、行政書士、中小企業診断士、司法書士、弁理士、宅地建物取引士、法学検定などの試験を受けてみることもできます。公務員を目指す道だってある。もし英語が得意なら、国際公務員を目指す道だってあるでしょう。

 若者が文学を目指すのを大人たちが止めるのは、ロマンチシズムに冷や水を浴びせるためではありません。むしろ、小説の読者の大半が生活者だからです。生活者の感覚から遊離すれば、人に読ませる作品は書けません。いったんは社会に出て、そこで人間社会のさまざまな理不尽さを肌で感じて、書きたいものをもって作家として出発するほうが、リアリティーのある小説が書けるはずです。

 新聞記者として長く勤めた後、小説家に転じた井上靖は自らの乱作時代を振り返ってこう語っています。

「その時期を才能だけで切り抜けて、一生書いていくというのは難しい。才能が早く出て、社会に出ないままに作家になってしまう人はいるけれど、本当に苦しいだろうな。自分は少なくとも半生を社会で暮らし、書きたいものをもって出発している。それは幸運だったと思っている」(黒田佳子「父・井上靖の一期一会」から)

 まず社会に出て独り立ちさせましょう。そうすれば小説のネタが見つかります。若いうちこそ、ネタを仕込む時期なのです。

井原裕

井原裕

東北大学医学部卒。自治医科大学大学院博士課程修了。ケンブリッジ大学大学院博士号取得。順天堂大学医学部准教授を経て、08年より現職。専門は精神療法学、精神病理学、司法精神医学など。「生活習慣病としてのうつ病」「思春期の精神科面接ライブ こころの診療室から」「うつの8割に薬は無意味」など著書多数。