独白 愉快な“病人”たち

元ラグビーA日本代表・酒井宏之さん(43)精巣がん

中大ラグビー部のヘッドコーチを務める
中大ラグビー部のヘッドコーチを務める(C)日刊ゲンダイ
精巣がんと診断され、腰痛ヘルニアと偽り舞台を降板した

 2005年に、大学の後輩でラグビー選手の生沼元が精巣がんで亡くなったんです。現役選手だった彼が26歳で亡くなったことに驚き、引退後に俳優として活動していた僕も検査を受けに行きました。彼の死の直後から左側の睾丸が腫れ、痛みはヒリヒリする程度だけど、股間に小さなラグビーボールがあるような感覚があったんです。

 過去にも股間を蹴られて打撲したことがあって、泌尿器科に行ったら美人の女医さんでアソコが立って赤面した……なんて笑い話もありました。けどね、今回は様子が違う。さらに硬くレモンぐらいまで大きく、赤紫色になっていたんです。

■病名を偽り出演舞台を降板

 医師から精巣がんだって言われた時には「いやいや、33歳の俺が?」と、自分のこととは思えなかったですね。ちょうど舞台出演の会見をしたばかり。役者としてこれからと思っていた時だったから、「手術は公演後でいいですか?」なんて能天気なことを聞いていました。

 その頃は相当鍛えていて裸のモデルもやっていたし、ラグビー部のノリで酒の席でよく脱ぐので、「傷が痛々しいのも困るな」なんて軽く考えていたんです。

 ところが、僕のがんは転移はしてないけど悪性。急を要するもので、術後の抗がん剤治療もマストとのことでした。結局、「腰のヘルニア」ということにして、急きょ舞台を降板しました。実は、こうやって人前で話すのも今回が初めてなんです。

 手術中は、亡くなった生沼とひたすら走る夢を見ました。彼が「つらいっすね」と言いながら一緒に走ってくれる。まるで、僕を励ましてくれるような夢でした。きっとヤツが助けてくれたんだと思います。

■35~36歳は試練の時期

 それより、大変だったのは術後です。16日1クールで計3回の抗がん剤投与がキツかった。当時は「筋肉番付」などのアスリート番組に出演していたので、入院中に体を絞ろうと筋トレの器具を持ち込んだものの、まったく無理!

 とにかく気持ち悪くて、トイレの便器に向かって吐くか、病室の天井を見てるかだけでした。寝ると怖い夢ばかり。ニオイに敏感になり、病院の食器のニオイもダメ。ずっと二日酔いが抜けないような状態で、体温調節もできず、夏場なのに寒くて仕方がなかった。

 がんから本調子に戻るまでの2~3年は運気も悪くて、投資話や怪しい誘いも多かった。芸能事務所を設立してアジア進出しようなんて話を持ちかけてきた人がいたのですが、後でその人が詐欺と暴行で捕まって……。僕もうっかり犯罪に関わるところでした。

 昔、ある占いのおじさんから「35~36歳は試練の時期」と言われていたんですけど、まさにドンピシャ。「危なかった」と思うことが多々ありました。

 そんな中、35歳の時に次男を授かりました。抗がん剤の影響で、もう子供はできないと言われていたし、例の“試練”で不運が続いていたのでうれしかったですね。

 ただ、息子は先天性心疾患と眼瞼下垂でまぶたが目を覆っているような状態で産まれてきました。これは明らかに僕のがん治療のせいだと思い、自分を責めました。でも、息子は2歳の時にまぶたの手術で視界が開けたと同時に、性格がガラッと変わって、積極的になり、今ではクラスのリーダー。たくましく育っています。

 僕自身は13年から中央大学ラグビー部のヘッドコーチに就任し、指導者の道を歩んでいます。中大ラグビー部は伝統ある強豪チームですが、就任当時はやや低迷気味でした。でも今は学生たちの目の色も変わり、強くなる手応えを感じています。

 夢は、中大で日本一になることと、教え子が日本代表としてW杯や五輪に出ること。それから、テレビが好きなので、番組に出演したいですね!

▽さかい・ひろゆき 1972年、東京都生まれ。大東文化大学を経て、リコーに入社。ラグビー日本A代表、リコーラグビー部の主将を務める。2002年に俳優に転向、「最強の男は誰だ!壮絶筋肉バトル!!スポーツマン№1決定戦」「SASUKE」など最強アスリートとして頭角を現す。13年から中央大学ラグビー部ヘッドコーチに就任。現在、北区王子で小学生にラグビー体験教室を開催中。