独白 愉快な“病人”たち

ボートレーサー倉持莉々さん 入学直前ホジキンリンパ腫に

倉持莉々さん
倉持莉々さん(C)日刊ゲンダイ

「ホジキンリンパ腫」という診断を受け、それがどんな病気か医師から説明を受けたときは泣きました。倍率約40倍のボートレーサー養成学校「やまと学校」へ入学するほんの1週間前のことだったからです。もうキャリーバッグに荷物を詰めて、あとは行くだけ……という状況だったのに、入学を断念せざるを得ませんでした。

 ホジキンリンパ腫は悪性リンパ腫の一種で、日本人にはとても珍しい病気だそうです。養成学校の入学試験のための減量で免疫力が落ちたところに、ロンドン五輪予選の日本代表になっていた水球の海外遠征があり、どこかでウイルスをもらってしまったのだと思います。告げられたがんの進行度合いはステージⅣでした。

 病気を自覚するようになったきっかけは、寮生活をしていた高校3年のある夜、突然おそわれた眠れないくらいの腹痛です。それ以来、深夜3~4時ぐらいになるといつも腹痛が起こるようになりました。でも、当時は水球の試合が重なり、実家にも帰れず、病院にもなかなか行けない状況でした。さらに、この頃は、右の鎖骨に水着が当たって痛かった。で、触るとしこりを感じるようになっていて、いよいよ怪しいと思っていました。

 大きな病院で受診したのはそのあとのことです。水球のチームメートと、その彼女のお母さんに同行してもらいました。後から思えば、その数カ月前から高熱が出ていたんです。でも、医師にはいつも「風邪ですね」と言われ、自分もそれを信じていました。結局、その高熱から病名がわかるまで約半年かかってしまったんです。

 入院したのは、くしくも自分が行くはずだった学校の入学式の日で、自分の誕生日でもありました。医師から「治療期間は1年はみてください」と言われました。でも、比較的薬が効きやすい病気だとも聞きました。最初の抗がん剤が効いたので入院したのは2週間だけ。その後は実家に戻り、週1回の通院が半年ほど続きました。

 毎回1日がかりで抗がん剤を点滴するんですが、その後3日間は食べられない、動けない、皮膚がピリピリする、関節が痛む……といった副作用がありました。抗がん剤はがんを弱らせると同時に自身の免疫力も極端に落としてしまうので、外出時はマスクが必須。家の中の除菌、消毒は家族全員、常に気を使っていました。

■丸坊主にして憧れの髪形のかつらを買い揃えた

 唯一、良かったといえるのは両親と一緒に過ごせたこと。ずっと寮生活だったので、実家は楽しかったですね。あと、かつらを楽しみました。抗がん剤は毛が抜けるって聞いていたので、入院前に坊主頭にしちゃって、憧れのロングヘアやボブなど、普段できなかった髪形のかつらを買い揃えたんです。だから、髪が抜ける悲しさは味わってはいないです(笑い)。

 治療が始まってから、割とすぐに「回復したら、またやまと学校を受験しよう」と決意しました。入学できなかったからこそ悔しさが増して、以前よりも強く「絶対、ボートレーサーになりたい」と思ったんです。

 じつは最初の受験は、「ボートレーサーになってほしい」という父親の願いに応えることが大きな原動力になっていました。でも、再受験して入学してみて思ったのは、“もし、あのまますんなり入学していたら途中で挫折したかもしれない”ということ。そのくらい学校は厳しかったんです。

 1年間、月1回の外出以外は自由なし。朝は6時から筋トレと掃除に始まり、学科と実技の日々。2日に1回は体重検査があり、規定をオーバーすると即帰宅させられる。電話は週1回3分だけ。手紙は週に2回、分厚いものを送りました。そして、家族の返事を読んで泣く……の繰り返しでした(笑い)。正直、つらかった。でも、病気で入学できなかった悔しさがやり抜く力になったと感じます。

 今は、半年に1回、検査を受けています。医師から「もう来なくていいよ」と言われるくらい元気になりました。家族や水球のチームメートには、本当に励まされました。大切にしなきゃいけない人たちだなと、病気をして改めて感じました。

 とにかく免疫力を下げないことが大事。体を冷やすものは食べないように心がけて、ショウガをめちゃめちゃ食べてます。

 目標は、賞金女王になることです。50歳までは現役を続けたいし、それまでに賞金女王になれなかったら、なれるまでやる覚悟です(笑い)。

▽くらもち・りり 1993年、茨城県生まれ。兄の影響で中学時代から水球を始め、17歳にして日本代表に選ばれる。高校卒業後はボートレーサーを目指して「やまと学校」(ボートレーサー養成所)に合格するも、入学1週間前に病気が発覚して断念。1年半後に再受験して入学した。2014年5月プロデビュー。翌年には初勝利を収め、現在B1級への昇格を目指す注目の若手選手。