独白 愉快な“病人”たち

虚弱体質から日本代表へ 大山加奈さん喘息との付き合い方

「心が体を引っ張っていく」と語った
「心が体を引っ張っていく」と語った(C)日刊ゲンダイ
虚弱体質に悩まされた子供時代

 物心ついた2~3歳の頃には、すでに「喘息」でした。発作が出ると急いで吸入をするのですが、つらくてつらくて……。いつ発作が起きるかわからず、常に吸入器をそばに置いておくような状態でした。発作が起こると苦しくて横になれないので、座椅子をリクライニングして休んだり、夜、眠れなくて泣いていたことを覚えています。

 母はそんな私に夜はずっと付きっきりで、背中をさすって励ましてくれました。ハウスダストを防ぐため丁寧に掃除をしたり、看病したり、頻繁に通院をしたりと、両親は大変だったと思います。

 喘息は発作が出なければ普通に生活できる病気ですが、ひとたび発作に見舞われると、その苦しさは筆舌に尽くし難い。100メートルダッシュを連続で何本も繰り返した後の胸の痛さと息苦しい状態が続く……というイメージでしょうか。

 私は虚弱体質で、発作が出ていないときも、熱を出したり、扁桃を腫らしたり、しょっちゅう学校を休んでいました。小学低学年のときは、年間40~50日はお休みしていて、1学期の間に3日しか学校に行けなかったこともありました。今振り返ると、よく進級できたなあと思います。

 そのため、家に閉じこもってお絵かきや読書をして過ごすことが多く、友達もいなくて、引っ込み思案、自分に自信が持てない内気な子供でした。

■バレーを通して自分に自信がついた 

 そんな私が変わったのはバレーボールに出合ってからです。背が高かったので、小学校入学と同時にクラブチームに誘われて見学に行ったんです。でも、両親に反対されていったんは諦めました。それでも「やってみたい」という気持ちがずっと残っていたので、2年生になって再び両親に相談をしたんです。「絶対にやめないから、やらせてほしい」という私の訴えを聞いて、両親は承諾してくれました。

 ハードな練習をするチームでしたが、監督が体の弱い私を気遣って練習量を抑えてくれたり、休ませてくれたりしました。私自身も水分不足が喘息に悪いと知って、頻繁に補給をするなど自己管理を怠りませんでした。チームメートも私の体調を配慮してくれて、バレーを始めて友達もできました。それが何よりうれしかったことを覚えています。少しずつ体力がついて、心も強くなっていくことが分かって、自分に自信がついてきたのもこの頃です。このチームは、私が小学6年生のときに全国大会で優勝しました。

 その後もずっとバレーを続けましたが、不思議なもので、バレーを始めてから、発作は季節の変わり目にちょこちょこ軽く出る程度でした。それが、高校3年生でバレー部を引退して大きな発作に見舞われたんです。それまでは、バレーのことで気が張っていたのだと思います。ホッとした瞬間に発作が出て、「病は気から」は真実だなあと感じました。

■メンバーにも監督にも伝えなかった理由

 高校2年生から日本代表の合宿に参加するようになり、その際のメディカルチェックで肺活量が比較にならないほど低いことが分かりました。医師から「毎日吸入しなさい」と言われ、それから朝晩、吸引を続けるようになりました。

 とはいえ、喘息持ちであることは監督にもメンバーにも伝えませんでした。監督はご存じだったかもしれませんが、スペシャリストの集まりである代表の中では、チームメートでありながらも皆がライバル。たった12人しか正選手に選ばれないのですから、あえて自分の体調を公言する必要はないと思っていました。それに、自分のパフォーマンスが悪い言い訳に喘息を使いたくはなかったのです。

 当然のことながら、走るのは非常に遅く、何度も“周回遅れ”を経験しました。高地トレーニングでバテてしまって、2~3日練習を休んだこともありました。でも、なぜか試合中には発作は出ないんです。きっと、気が張っているからなんだと思います。

 本当はよくないのですが、現役を引退してからは吸入もさぼっています(笑い)。それでも「部屋の掃除は頻繁に」、旅先では「保湿は十分に」を心掛けています。

 今、小学生の子供たちにバレーをはじめとしたスポーツの素晴らしさをお話しする機会に恵まれています。そのたびに、「喘息を持っていたけれど、頑張ってオリンピック選手になれたよ」と話すんです。子供たちも共感してくれて、「頑張っていたら、夢をかなえることができるんだ」と思ってくれるようで、うれしいです。

 私はバレーに出合って人生が百八十度変わりました。夢中になれるものが見つかると、病気を持っていても元気に過ごせると実感しています。心が体を引っ張っていく――確かに、そんな部分があるんですね。

▽おおやま・かな 1984年、東京都生まれ。幼い頃に才能を見いだされ、成徳学園高校(現・下北沢成徳高校)では主将としてインターハイ・国体・春高バレーの3冠を達成する。17歳で日本代表に初選出され、2004年にアテネ五輪に出場した。10年6月に現役引退。現在はスポーツ解説者を務めながら、バレーボールの普及・発展に向けて幅広く活動中。

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