がんと向き合い生きていく

「余命1カ月」と記された書類にサインをさせられた患者

都立駒込病院の佐々木常雄名誉院長
都立駒込病院の佐々木常雄名誉院長(C)日刊ゲンダイ

 Fさん(56歳)は膵臓がんと診断され、手術を受ける予定でBがん専門病院に入院しました。しかし、手術直前の検討会で「病気の進行が速いため手術は無理」と判断されて退院となり、以後は内科外来に通院となりました。

 通院しながら抗がん剤治療を始めて2カ月、今度は39度の発熱があって緊急入院。抗生剤点滴などの治療を5日間受けて解熱し、退院することになりました。その際、担当医から書類が渡され、署名を求められたといいます。内容は、「これまで膵臓がんに対して抗がん剤治療を行ったが、期待される効果は得られず中止とする。余命1カ月が考えられる。ご自分らしい日々を送っていただくために在宅で過ごされることを支援いたします」といったものでした。そして、一緒に近医への紹介状も渡されました。

 Fさんは、これまでもたくさんの書類にサインしてきましたが、今回のサインの時は苦笑したそうです。

 帰りの車の中で、「余命1カ月にサインさせるなんて……」と怒っていた奥さんに対し、Fさんは「もう、あの医者にはかからないのだから」と返したといいます。

 医師が「余命1カ月」を淡々と患者に告げる。患者は「余命1カ月」と記された書面にサインする。そんな時代になったのでしょうか? 奥さんからその書面を見せられた私は、「『余命1カ月』にサインしたFさんは、その後の一日一日をどう過ごすのだろう。食事が普段の半分ほどしか食べられなくなっているのに『自分らしい日々を送る』なんて……。本当にそのようなことができるのだろうか」と思いました。Fさんは「夜は睡眠剤をもらっています」と寂しそうに笑っていました。

■患者と医師の関係が希薄になっているのでは

 30年前まで、われわれが行ってきた「患者にがんを隠し、最後まで死を隠した」医療とは天と地ほどの差があるように感じます。あの当時、医師も家族も、患者本人に対して「がんを隠すこと、死を隠すことが最大限よかれと思って、それが最大の愛と思いやり」であると信じていました。私たち医師は病気が悪化しても死を話さず、「大丈夫、大丈夫」と言い続けてきました。

 いまの時代では、「がんの末期で血圧が下がった時に、たくさんの昇圧剤、強心剤を使ったなんて、なんと無駄な治療をしたものだ」と嘲笑されます。しかし、告知をしていない、患者本人には最後の最後まで死を隠す当時の医療においては当然の、家族にとっては納得のいく治療だったと思うのです。当時、ほとんどの患者は真実を言われなくとも医師を信頼していましたし、われわれ医師も患者とのコミュニケーションは良好だったと思うのです。

 あれから30年がたって、いま簡単に「1カ月の命」と言われて、本当に患者は大丈夫なのでしょうか? 人の“こころ”はそんなに進化したのでしょうか? 自身の胸腺がんと闘ったある医師は「人間の寿命は決められているかもしれないが、寿命なんて知らずに生きていけるほうがいい。たとえ交通事故に遭って明日死ぬにしても、自分の寿命をカウントダウンしなければならない人生はあまりにも過酷だ」とおっしゃっています。

 医学は進歩し、いまは真実を告げる時代である。確かにそうでしょう。しかし、短い命を告げられた患者の“こころ”は、むしろつらくなっているのではないでしょうか。そして、患者と医師の関係が希薄になっているのではないか。優しさが少なくなっているのではないだろうか……と私は思うのです。

 病院で、Fさんのように「1カ月の命」などと告げられることは少ないようですが、Fさんのような患者さんに会うと心配になってきます。

 Fさんは、あれから近医に往診していただき2カ月たちましたが、いまも苦しむことなく自宅で過ごされています。

佐々木常雄

佐々木常雄

東京都立駒込病院名誉院長。専門はがん化学療法・腫瘍内科学。1945年、山形県天童市生まれ。弘前大学医学部卒。青森県立中央病院から国立がんセンター(当時)を経て、75年から都立駒込病院化学療法科に勤務。08年から12年まで同院長。がん専門医として、2万人以上に抗がん剤治療を行い、2000人以上の最期をみとってきた。日本癌治療学会名誉会員、日本胃癌学会特別会員、癌と化学療法編集顧問などを務める。