「あの歌声では放送できません」
出演した番組のディレクターにそう言われたとき、自分としては凄く頑張ったのに、それと結果は別物なんだと思い知らされました。
結局、放送は録音の音源に差し替えられてしまい、その出来事をきっかけに治療に専念することにしたんです。それが2000年の年末でした。復帰までに10年もかかってしまうなんて思いもしないで……。
そもそもは、00年の年明けに風邪をひいて、咳が1カ月ほど止まらなかったことに始まります。咳が止まってからは思うように声を出せなくなって、震えるというか詰まるような感じで、音程が取れないどころか「おはようございます」の「お」がスムーズに出ないのです。
「痙攣性発声障害」という病名が分かったのは、01年から一切の仕事を休止して医療機関を受診し始めてから4年が経ったころです。それまでは、どこへ行っても「声帯に異常はありません」と言われて、判で押したように「精神的なことからきているかもしれません」と言われるんです。もちろん飴だのお茶だの、いいといわれているものは何でもやりました。でも、良くなる気配はまったくありません。
そんなとき、テレビで知ったのが、とある病院の「発声外来」でした。歌手の方がチラッと言ったその言葉を聞き漏らさず、すがる思いでその発声外来を受診して初めて病名が判明したのです。
痙攣性発声障害は、声帯の周りにある筋肉に脳からの指令がうまく伝わらない病気です。私の場合は、「声を出そうとすると声帯が締まってしまう」という症状でした。 治療には、3カ月ごとに注射を打つ対症療法や、チタンを埋め込む手術などもあるそうですが、私の通った外来では、発声の訓練をすることで徐々に治す方法でした。交通事故などのショックで声が出なくなった人が行う治療と同じようなものだと聞きました。
治る手術があるということは知りませんでした。でも、今思えば知らなくてよかったと思います。もし知っていたら、絶対に手術を選んでいましたから。やはり、長い目で見れば自己回復力で治るに越したことはないと今は思えるんです。でも、自己回復には、そこからさらに6年かかりました。さすがにお金も底をつきますよね。
■「もう歌わなくても生きていける」と考えたら気持ちが楽に
実は私、01年に無謀にも離婚したんです(笑い)。
いびつな家庭の事情があったので、治療するにあたり、少しでもストレスは排除したほうがいいんじゃないかと思って……。当時は多少の蓄えもあったし、長くても2~3年で復帰できると思っていたのです。
ところが、思うようにはいかないもので、活動休止から数年後には生活が苦しくなり、家賃の高い東京から離れました。故郷の熊本に帰ることも考えましたが、そこまでいくと、復帰するときに大変だと思って千葉へ(笑い)。家賃は3分の1になりました。
09年ごろからは近所の酒屋さんでアルバイトを始めました。その前の年、自分ではそろそろ歌えるようになったと思ってディレクターに歌を聞いてもらったのに、彼の表情は限りなく曇り、「ああ、まだだめなんだ」と思ったからです。
食べるために酒屋さんでアルバイトを始めてから1年が経過するころには、「もう歌わなくても生きていけるわ」と考えるようになりました。お店には青木美保を知ってくれている人もチラチラ現れて、2つあるレジの私のほうだけに列ができるということもありました。
復帰のOKが出たのはその翌年です。“もう歌わなくても生きていける”と考えるようになったことで、気が楽になったのでしょうか。以前のように楽に、発声することを意識せずに声が出せるようになったんです。
“たかが声が出ないくらい大したことない”と思う人もいるかもしれません。でも、どんな心身の機能でも失ってみないと、その苦しさは分かりません。ひとつ失うことで心が病んで、どんどん悪循環にはまっていく……。そんな経験をしたからこそ、「健康が一番」と思うようになりました。
ストレスをためないように「多少太ってもいいか」と思ったり、腹が立つ出来事があっても、いい方向に考えることにしました。たとえば「歌えない10年間があったけれど、その分、喉を使っていなかったから、私の声帯は10年若い。10年長く歌える」って。
何より今は、歌わせてもらえる場所があることがどれだけ幸せか、ということを噛みしめる毎日です。
▽あおき・みほ 1966年、熊本県生まれ。84年に「人生三昧」でデビューし、数々の音楽祭新人賞を受賞。その後も五木ひろし作曲の「夢一輪」、堀内孝雄作曲の「化粧」などがヒットする。2001年から活動を休止したが、11年に復帰。復帰第5弾となる新曲「花海棠」(麻こよみ作詞、岡千秋作曲)が発売中。
独白 愉快な“病人”たち