独白 愉快な“病人”たち

元クリスタルキング田中昌之さん 心筋梗塞が人生の転機に

退院後は100メートル歩くのもやっとだった
退院後は100メートル歩くのもやっとだった(C)日刊ゲンダイ

「ガッ!」ときて「何だ!?」って思いました。よく「心臓をわし掴みにされる」といわれますけど、まさにそんな感じ。そして、ものすごく熱かった。アゴの下から心臓まで焼いた火箸をのんだような……。実際、のんだ経験はないですけどね(笑い)。

「急性心筋梗塞」で倒れたのは、2011年3月21日でした。東日本大震災の10日後だからよく覚えています。深夜0時ごろ、自宅でマネジャーと次のライブの打ち合わせをしている時でした。突然、心臓にあの痛みがきたのです。

■AEDを3回やっても心拍が戻らない

 子供のころから不整脈があって、胸が苦しくなることはそれまでも時々ありました。いつもは深呼吸をしてあばらを開くと治っていたのですが、その時は何度、深呼吸しても楽にならない。10分ほどして「やっぱり駄目だ」となって、初めてマネジャーに救急車を呼んでもらいました。ただ、搬送される前に風呂に入ったんですよ。“もう死ぬんだな”と思ったから……。ロックンローラーたるもの最後は身を清めないといけないと思ったんです(笑い)。

 脳に酸素が回ってないから、意味不明な行動をしながら救急車の到着を待ちました。深夜のサイレンでご近所の人が集まってきてしまったので、そんな中をストレッチャーに乗せられて運ばれるなんて死んでも嫌だったんですけど、「歩ける!」と言うオレの抵抗もむなしく、結局、乗せられちゃいました。あまりのカッコ悪さに“もう終わったな”とがっくり力が抜けました。覚えているのは、救急車の後部ハッチがバタンと閉まった瞬間までです。

 ここからはマネジャーに聞いた話になりますが、搬送中に心肺停止になりました。AEDを3回やっても心拍が戻らなかったので、覚悟もしないといけないと思ったそうです。でも4回目で蘇生しました。自分は覚えていませんが、その後は意識が行ったり来たりしていたみたい。おかしいのは、意識が遠のきそうになった自分に名前を呼びかけると、「ハーイ!」と元気に返事をしたってこと。長年染みついた反応ってすごいですね(笑い)。

■当直がカテーテルの名医でラッキーだった

 運ばれたのは横浜市立みなと赤十字病院でした。ラッキーだったのは、その日、当直していたのがカテーテルの名医だったことです。心筋梗塞は、詰まった部分の血管を広げることが第一。脚の付け根の動脈から心臓付近までカテーテルを入れて、詰まっているところにステントという血管を広げる金属製の網状の筒を入れたんです。オレの体には今、4つのステントが入っています。ICUに3日間、一般病棟に4日間でもう退院でした。カテーテルの名医のおかげだと思います。

 そのドクターに「何でこうなったか分かりますか?」と問われた時、「ストレスですかね」と答えると、すごい目力でこう言ったんです。「たばこです!」と。何を隠そう1日2箱のたばこを何十年も吸い続けてきたヘビースモーカーでした。これまで何度も禁煙に挫折して、みんなに「オオカミ少年」と言われていたんですけど、あれ以来、この6年間は一度も吸っていません。

 たばこをやめたのは長生きしたいからではなく、入院中の自分の姿があまりにみじめだったからです。自分じゃ何もできないから仕方ないんですけど、“そこは自分でします”というところまで看護師さんがやってくれるでしょう? あんなみじめな思いは二度としたくない(笑い)。

 退院後は体力のなさに愕然としました。散歩をしようと外に出たけれど、家からたった100メートルで息が上がってしまってそれ以上歩けない。冷や汗をかきながら休み休み30分もかけて家まで戻った時は、さすがにへこみました。でも「ここで負けたらロックンローラーじゃない」と自分を奮い立たせて、翌日は100メートルプラス1歩、その次はプラス2歩と、少しずつ距離を延ばしました。5日目ぐらいに突然タガが外れたように何キロも歩けるようになって、歩き過ぎてタクシーで帰ってきたりもしました(笑い)。

 振り返れば10代から“人嫌い”で、デビュー後もあまり人を寄せつけませんでした。でも震災があり、病気があり、すっかり“人好き”になりました。去年は故郷の伊万里市の観光大使になったんです。何十年かぶりに同窓会にも呼ばれたし(笑い)。プラスマイナスゼロの人生になるように、だんだん“いい人”になってきました。

 悟ったのは、「人は意外と簡単に死ぬ」ということ。だから人生に後悔をしないよう、特にステージでは1秒たりとも手を抜きません。見に来てくれた人との縁を1ミリも無駄にしたくない思いが、より一層強くなりました。

▽たなか・まさゆき 1951年、佐賀県生まれ。「クリスタルキング」のメンバーとして79年にシングル「大都会」でデビュー。バンド活動の後、86年にソロとなり、アニメ主題歌やゲーム音楽など、幅広く活躍している。昨年リリースの洋楽名曲カバーアルバム「It’s MyLife」が好評を博している。

関連記事