「遺伝性乳がん・卵巣がん」対策を阻む日本人の家意識

欧米より20年の遅れ
欧米より20年の遅れ(C)日刊ゲンダイ

 先日、厚労省が遺伝性乳がん・卵巣がん(HBOC)の初の診療方針をまとめた。「がんになる前に乳房を切除する」(文芸春秋)を上梓した小倉孝保氏に、遺伝性乳がん治療の最前線を聞いた。

 日本でHBOCが大きく報道されるようになったのは2013年以降だ。きっかけは、米女優アンジェリーナ・ジョリーが遺伝子検査後、将来の乳がん回避のために両乳房を切除したこと。遺伝子変異と乳がんとの関係が確認されたのは1994~95年なので、20年経ってようやく、ということになる。今回の厚労省方針は、遺伝子変異が見つかった場合、予防的な乳房切除を「考慮してもよい」とするものだ。

 毎日新聞の記者である小倉氏がHBOCの取材を始めたきっかけは、英国人女性ウェンディ・ワトソンさんを知ったことだった。家族の病歴から乳がんリスクが高いと確信していた彼女は92年、すなわち遺伝子変異と乳がんの関係が確認される2年前に、医師を説得して乳房を予防切除し、卵巣を摘出。英国政府を巻き込み予防切除の普及運動を展開した。

 彼女を追う中で、小倉さんは予防切除を行った英国人女性に何人も会った。翻って日本で取材を行った時、痛感したのは「遺伝」に対する考え方の差だ。

「英国では『乳房の予防切除で乳がん発症の恐怖と別れられる』と前向きな捉え方。一方、日本では『夫の家族に申し訳ない』『悪い血を受け継がせることになる』と後ろ向きな捉え方なのです」

 乳がんの患者同士でも「遺伝」という言葉を出すと拒否感を示される。HBOCと分かったが家族に隠している人、「結婚も子供も諦めた」という人もいた。HBOC当事者会を立ち上げた太宰牧子さんからは、「(太宰さん以外)匿名希望。リラックスした場でも本名を明かさない。頻繁に呼び名を変える人もいる」と聞いた。

 英国では予防切除経験者が日本とは比べようがないほど多い上に、大半がSNSなどを通して公表しており、取材の協力者を探すのに苦労しなかったが、日本ではがん発症前に予防切除をした人がいない上、乳がん発覚後にHBOCと分かった人の中でも本名での取材に応じてくれる人はごくわずかだった。

「日本には『家』の意識が強く、家のあり方と遺伝のネガティブな考え方がつながっているのでしょう。太宰さんによれば、乳がん患者会には多くの会社の協賛が得られているのに、『遺伝性』となると協賛をことごとく断られるそうです」

 HBOCの対策が遅れている理由はもうひとつある。健康保険の問題だ。遺伝子検査、予防切除は全て保険適用外。遺伝子検査は25万円かかる。

「だから日本人の遺伝データが集まらない。予防切除の普及には保険適用が必要になりますが、それには日本人の遺伝データが必要で、遺伝データを収集するには検査費用を下げなくてはならない。そして、それには保険適用が必要……と堂々巡りに陥っているのです」

 加えて、予防切除後の再建手術の技術が進む英国に対し、日本では高い技術を持つ専門医は少ない。美しい再建が望めないなら予防切除をやろうという気には、大半の女性はならないだろう。

 小倉さんが願うのは「予防切除を希望する人が、それを選択できる社会」。今回の厚労省の動きで一歩近づくのではと、期待している。

■HBOCとは

 親から受け継いだ特定の遺伝子変異により発症。HBOC患者の乳がん、卵巣がん発症リスクは一般の人より高く、乳がんは女性で41~90%、男性で1・2~6・8%、卵巣がんは8~62%。発症前に予防切除すれば、リスクを大幅に下げられることが分かっている。

▽おぐら・たかやす カイロ、ニューヨーク両支局長、欧州総局(ロンドン)長を経て2015年から外信部長。英国の乳房予防切除の実態報告で日本人初の英外国特派員協会賞受賞。