独白 愉快な“病人”たち

40代で難病に さかもと未明さんを救った名ホテルでの半年

「小さい頃から運動会や遠足が苦痛だった」とさかもと未明さん
「小さい頃から運動会や遠足が苦痛だった」とさかもと未明さん(C)日刊ゲンダイ

 私、難病の宝庫なんです。2007年に「全身性エリテマトーデス」「シェーグレン症候群」「強皮症」と診断されましたが、その後も「成人スティル病」「多発性筋炎」、あと非常に珍しい難病「腸管気腫症」も見つかって。ほとんどが難病指定されている膠原病(自己免疫疾患)です。07年の時点で、医師から「治療しないと5年以内に動けなくなるか、死ぬ」と言われました。加えて11年に「アスペルガー症候群」、12年に「双極性障害」と診断され、並行して治療中です。

 小さい頃から、みんなが楽しいと感じる運動会や遠足などが苦痛でした。特に日光に弱くて、日に当たると体が動かなくなるのです。おのずと学校も休みがちで、その原因がわからない両親との確執がどんどん広がっていきました。

 社会人になっても欠勤や早退を繰り返しました。それで「会社勤めには向かない」と思い、憧れていた漫画家を目指して退職。猛反対する親を振り切って家を飛び出し、結婚をし、漫画家デビューを果たしたんです。結局、結婚生活は4年ほどしか続きませんでしたが、漫画家生活は長く続けられました。

 離婚して一人暮らしを始めてみると、とても体調が良くなりました。夜中に仕事をして昼まで寝ていられる環境が体質に合っていたんですね。それでも時々、体調を崩して病院に行くと、「甲状腺が腫れている」とか「子宮筋腫が複数ある」と言われたりしていたんです。ただ、痛みが引くと病院に行かなくなり、仕事に没頭しました。「“漫画家になる”と親にタンカを切って出てきたんだから、漫画を描きながら死ねるなら本望だ」くらいの心持ちでした。

■ステロイド投与を受けて衝撃を受けた

 そして06年の年末、41歳の時に指がひどく腫れ始め、ある時、全身の関節がひどく痛んで、ペンも持てなくなり、皮膚科に行きました。すると「膠原病の疑いがあるからすぐに東大病院へ行きなさい」と言われたのです。検査の結果、全身性エリテマトーデスなどの診断が下りました。

 当時テレビに出ていたので、顔が腫れるのが怖くてステロイドを拒否していましたが、手足の筋膜が拘縮して歩けなくなった時、諦めてステロイド投与を受けました。これが凄く衝撃でした。物心ついた頃からずっと感じていた全身の疲労感や痛みがウソのように軽くなったからです。「普通の人は生きるのがこんなに楽なんだ」と思いました(笑い)。

 その後も薬でだましだまし仕事を続けましたが、それまで「元気で明るい未明さん」で売っていただけに、難病を公表すると一気に仕事がなくなりました。特に11年前後は不倫報道や個人的な言動が批判を浴びてしまい、体調も悪化の一途をたどりました。一番ひどい時は、障害者手帳の等級が2級でした。

■半年間の椿山荘生活と夫のおかげで少し回復

 そんな私を見かねて、「君を助けたい」と言ってくれたのが今の夫です。その頃はもう寝たきりに近い状態だったので「最後に一番憧れているホテルで暮らしたい」と思い、貯金をはたいて椿山荘で暮らすことにしたのです。約半年間、この上なく美しい場所で心尽くしの接客を受けながら、「なぜ、こうなってしまったんだろう」としみじみ半生を振り返りました。

 発端は「親に認められたい」という気持ちでした。体が弱くて学校からも会社からもはみ出してしまい、家を出た揚げ句に夫も振り捨て、子供も怖くて持てなかった。そのマイナスを埋め合わせるために「うんと成功しなければいけない」と思い頑張ってきた。でも、それは「両親を見返したい」という恨みから出たもので、愛がなかったことにやっと気づいたのです。病気はそれを教えてくれました。これから人の気持ちに届くような愛のある仕事をしていくために必要な試練だったのかなと思います。

 半年間の椿山荘生活と医師である今の夫のおかげで体調が少し回復し、13年6月に結婚式を挙げました。

 自分が発達障害だと知ったのは、その少し前。11年に知人からすすめられた発達障害の本を読み、著者である星野先生の診察を受けました。翌年には双極性障害も併発との診断を受け、それによって両親との確執、離れていった人や仕事、今までの「なぜ?」が解けた気がしました。発達障害はコミュニケーション障害、自閉症の一種なんです。人の気持ちを酌み、素直な気持ちを伝えるスキルがない。だからそれを改善しようと努力するようになりました。また、発達障害の薬である「コンサータ」を飲んだことで、体の調子も良くなった気がします。

 表現活動がいつまでできるかは今もわかりません。でも毎日を後悔なく生きたい。一日一日、大事にしたいと思います。

▽さかもと・みめい 1989年に漫画家デビュー。その傍ら執筆も開始。論客ぶりが脚光を浴び、雑誌やテレビでも活躍。膠原病を発症後「動けなくなってもできる表現を」とジャズシンガーデビュー。2017年には銀座の吉井画廊で画家として個展開催も果たす。著書に「まさか発達障害だったなんて」(PHP新書)、「奥さまは発達障害」(講談社)などがある。現在は、震災復興と拉致問題解決に関する企画に参加し、尽力している。

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