がんと向き合い生きていく

意識がなくなる直前まで俳句を作り続けた患者さんがいる

都立駒込病院の佐々木常雄名誉院長
都立駒込病院の佐々木常雄名誉院長(C)日刊ゲンダイ

 がんが再発した、あるいは、がんが治療に抵抗したことで「不治」だと判断された患者さんは医師からその状況を知らされた後、どう病気と闘うのでしょう? どう生きられるのでしょう? どう安寧な心で過ごせるのでしょう? 「日本人は死生観ができていない。死の勉強が必要だ」という医師もいますが、それは本当でしょうか。死の勉強をすれば死の恐怖を克服できるのでしょうか。

 悪性リンパ腫の中で最も悪性度の高いタイプに罹患し、1年2カ月にわたって闘ったW君(29歳)のお話です。悪性リンパ腫は骨髄にも浸潤し、高度な貧血と発熱を繰り返していました。

 勤めていたIT企業を休職して大変な病苦と闘うことになったW君に向け、父親は思いつきで「歳時記」を勧めました。長い文章を追う読書もつらいだろうと考えたからです。それが、W君にとって俳句との出合いになりました。

 W君は長い入院生活、長い闘病生活の中で、たくさんの俳句を作りました。病状は次第に悪化してつらさが増していったのですが、それでも俳句への熱も増していったようでした。そして、ついには週刊誌やテレビなどいくつもの俳壇で入選するようになったのです。 その頃、W君の病室には自分の俳句が掲載された週刊誌などがベッドに置いてあり、私が病室を訪れたときは必ず俳句の話になりました。

「病舎裏 紫陽花の藍 四つ五つ」

 初めて週刊誌で佳作に選ばれて掲載された句で、W君は「これは『三つ四つ』ではダメ、『四つ五つ』でないといけないんです」と、うれしそうに教えてくれました。

「初外出 薄紅葉にも 眩暈せん」

「柿一つ カクみて明日は 見えざるも」

「行く春や 枕に子規の 病日記」

 病状の悪化を知らされ、痛みに耐えながらも、W君は「カリエスだった正岡子規はもっと苦しんだんです」と言っていました。そして、抗がん剤治療を受けながら、口癖のように「あー、忙しい忙しい」と言っては俳句に打ち込んだのです。

■瞬間、瞬間の癒やしが死の恐怖に立ち向かう心を支える

 短歌も作りました。

「寒風の 中にバス乗る 見舞い母 去り行きてなほ 窓辺離れず」

 がんの患者さんには、病気と闘いながら自宅や病室で絵手紙を書く方、折り紙をされる方、パソコン相手に将棋を指す方、いろいろな方がおられます。特に趣味にしているわけではなくても、自分で好きになれるものがあり、時間を忘れることができる――。落語を聴くこと、お孫さんの写真を見る……その時、一瞬一瞬だけかもしれませんが「癒やし」になっているのだと思います。

「君がこゑ 間近聞こゆる 朝なれば 鎮痛剤に 勝る癒しも」

 W君は看護師さんの笑顔、ただそれだけでも病気で萎えそうになった心を支える“幸せ”を感じていたのでしょう。

 意識して宗教を信仰している方が少ない現代の日本においては、「不治の病気と闘う心」を持つために、しっかりした強い心や立派な人生観を持つことも大切かもしれません。

 しかし、「日常のささいな楽しみ」や「毎日の小さな小さな幸せ」といったものが、患者さんの瞬間、瞬間、心を支えている。W君の俳句にそう思わされました。

 W君は若いわりにはたしかにしっかりしていました。それでも、心の中では落ち込むこともたくさんあったと思います。彼を支えてくれたのはもちろんご両親ですが、俳句を作ることも彼の心を支えたはずです。

 W君は意識がなくなる直前まで俳句を作りました。

「癒ゆる日も あらんや桃の 空の下」

 後に刊行された彼の句集に載っている句です。 フランスのモラリスト文学者、ラ・ロシュフコーは「太陽と死は直視できない」と言いました。正岡子規やW君にとっての俳句は、襲いかかる死の恐怖に立ち向かう心の支えになったのではないだろうか。そう思います。

佐々木常雄

佐々木常雄

東京都立駒込病院名誉院長。専門はがん化学療法・腫瘍内科学。1945年、山形県天童市生まれ。弘前大学医学部卒。青森県立中央病院から国立がんセンター(当時)を経て、75年から都立駒込病院化学療法科に勤務。08年から12年まで同院長。がん専門医として、2万人以上に抗がん剤治療を行い、2000人以上の最期をみとってきた。日本癌治療学会名誉会員、日本胃癌学会特別会員、癌と化学療法編集顧問などを務める。

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