独白 愉快な“病人”たち

骨肉腫で脚切断の危機 東儀秀樹さん“余命1年”からの現在

25歳のとき、医師が母に自分の“余命”を伝えているのを聞いた
25歳のとき、医師が母に自分の“余命”を伝えているのを聞いた(C)日刊ゲンダイ

「この若さだと進行も早いので1年ぐらいで命を落とす可能性があります。覚悟してください」

 医師が母に、そう話しているのを隠れて聞いたのが25歳のときです。当時、雅楽師として舞をする日々の中、屈伸をすると左膝が痛むようになって病院に行きました。検査をすると左膝のお皿の中に腫瘍が見つかり、入院してさらに詳しい検査をしたのです。

 腫瘍を検査するために、お皿にドリルで穴を開けてほじくり出すという手術が行われました。それはなかなか珍しかったようで、数多くの医師に見守られ、手術の様子を写真に撮られるような事態でした。その結果、割と大きめの悪性腫瘍と判明したようなのですが、当時は本人へのがん告知はあり得ない時代でした。そのため、家族だけが診察室に呼ばれたわけです。

 スピーカーで家族が呼ばれたとき「これは普通じゃないな」と思い、こっそり母親を尾行して盗み聞きをしたのです。すると、「悪性です。リンパにのって体中にがんが回った場合は、この若さだと……」と、母親に前述のがん告知がありました。さらに「左脚の付け根から切断すれば2~3年は延命できる可能性はあります」という話も聞いてしまいました。

 でもなぜか、まったくショックを感じなかったんです。怖くもなかったですし、「なぜ自分が?」という悲観的な思いも一切ありませんでした。「しょうがないな」と自然に現実を受け止められたのです。むしろ「あと1年ならば、その間を精いっぱい堂々と楽しんで生きてやろう」と力が湧いてきました。

 生まれつき「もうダメだ」とは思わず、「ダメな中でも最高のことをすればいい」と考えるタイプなのです。他人は「プラス思考だね」なんて言いますけど、そんな自覚もないくらい人生にマイナス要素を感じません。

■ずっと知らないふりをしていた

 その後、「本当はがんなんでしょ? 何を聞いても平気だから教えて」と言っても、医師も看護師も「ちょっと珍しい病気なだけですよ」と言葉を濁すばかり。でも入院は3週間に及び、その間にどんどんお見舞いの人が増えるんです。遠い親戚まで来るし、しまいにはボクが可愛がっていた猫まで連れてくる始末(笑い)。でも、自分が盗み聞きしたことを知ったら周囲が余計に悲しむだろうと思って、ずっと知らないふりをしていました。

 入院中は、病室の花を描いたり、知り合いになった患者さんの顔を漫画風にデフォルメして笑わせたり、お見舞いに来てくれる人を楽しませたくて、いろんなことを考えて面白がっていました。そうやって楽しいことを濃くしていけば、楽しい人生になるからそれでいいと。

 その一方で、病院では左脚を切る話が進んでいたようです。ただ、日を追うごとに数値が良くなり、どんどん元気になっていくボクの様子を見て、主治医が通院することを条件に退院を提案してくれました。不思議なことに、がんが消えていたのです。結局、ろくに通院しないまま今に至ります(笑い)。

 入院中の治療や薬は一切なく、治療方針を考えている間に好転して退院できてしまったので、何が良かったのかは不明です。自分としては「ワクワク細胞」のおかげだと思っています(笑い)。「精いっぱい楽しんで生きてやろう」というワクワクした気持ちがワクワク細胞を活性化させ、がんをやっつけた。「病は気から」といわれるように、ワクワク細胞を活性化させるのは自分の意思でしかありませんから。

■脚を残してくれた主治医に感謝

 でも、脚を残してくれたのは、膝の権威といわれる主治医でした。数年してその主治医が亡くなった後に奥さまから聞いた話では、「あのとき主人は、病院の医師全員を敵に回して闘っていました」とのことでした。当時の医療では、あの状況ではなるべく早く脚を切断するのが常識だったのです。残したことで病院の責任を問われることにもなりかねない。だから、その主治医の勇気には本当に感謝しています。

 この膝のがんの他にも、死にかけたことが何度もあります。初めは18歳でのバイク事故。もうひとつは高速道路でトラックに追突された自動車事故。7年前にはバイクで転んで肋骨を7本折りました。

 何度も死のふちから助かると、「それは神様に生かされているのです」と言う人もいるけれど、僕が思うには、こうしたインタビューで語る使命を帯びている気がします。ワクワク細胞のことや、楽しんで生きることのステキさを宣伝するっていうね(笑い)。

 ちなみに、2月後半には右膝の手術をします。今度は原因不明の半月板損傷です。おかげさまで、また話のタネが増えました。

▽とうぎ・ひでき 1959年、東京都生まれ。奈良時代から雅楽を世襲してきた楽家に生まれ、18歳で宮内庁楽部に入る。宮中での演奏の他、海外公演などで国際親善の一翼を担う。96年のアルバムデビュー以来、ジャンルを超えたオリジナル曲が国内外で高い評価を得る。

関連記事