独白 愉快な“病人”たち

胃の5分の4を摘出 アントニオ古賀さんはがんが心の転機に

「がんになって初めて痛みを知った」とアントニオ古賀さん
「がんになって初めて痛みを知った」とアントニオ古賀さん/(C)日刊ゲンダイ

「やりましたね」

「え? 何ですか?」

「がんです」

「ああ、そう」

 主治医からがん告知されたときはこんな感じでした。まったく慌てなかったのは、40歳から毎年必ず胃と腸の検査をしていたからです。何かあっても早期なことはわかっていたので、「ガーン!」とはなりませんでした(笑い)。

 がんはステージ1。告知は67歳の1月初旬です。気がかりだったのは2月にキューバで仕事が入っていたことでした。先生に相談すると「行っていい」とのことで入院日を設定。それほどにがんは初期でした。

 帰国後、主治医から紹介された順天堂大学医学部付属順天堂医院にすぐ入院しました。精密な検査を受けると、胃粘膜の表面だけじゃなく内側にもがんが入り込んでいたことが判明して、結果的に胃の5分の4を取りました。

 ただ、その前に「手術できません」と言われた経緯もあったんです。遺伝の持病である「糖尿病」がかなり悪化していたからです。「このまま手術をしても血が止まらず傷がふさがらない状態」と言われました。そこで10日間は毎日インスリンを打って、病院の周囲を歩き回り、血糖値を下げてから手術となりました。

 それも含めて入院は20日間。手術の翌日から歩かされたことはつらかったですが、それ以外は問題なく、病院食もおいしくいただきました。というか、ちゃんと食べて早く退院しないと本当においしいものにありつけないじゃないですか(笑い)。

■「ケセラセラ」は相変わらず

 物事は悪く考えるとそれに引っ張られるもの。私は、病気はストレスが引き起こすと思ってますから「よく食べ、よく寝て、よく笑い、よく歌う」を実践してきました。

 また、子供の頃から健康な上に、少しでも具合が悪いとすぐ病院に行くタイプでした。プロになってからはなおさら「忙しいからあとで」じゃなく、すぐ受診。周りで入院した人がいると「自分が悪いんだろう。放っておくからだ」と思っていたくらいです。自分はストレスもためないし、ケアも怠っていないから、病気になんかならないと信じていたんです。

 でも、自分ががんになって初めて痛みを知り、励まされ、そして「悲しかったら泣けばよかったんだ」と気づきました。親から「男は泣くもんじゃない」と教育されてきた年代です。「何でもウエルカム。ポジティブに生きよう」と思い過ぎた結果、苦しい時も誰にも頼ることなく、相談もせず、泣く代わりに笑ってきました。「苦労は栄養になる」とか言って平気な顔をしてきたことが、自分でも気づかないうちにストレスになっていたのかもしれません。

 もう一つ考えられる原因は、春2カ月、秋2カ月の断酒を、60歳を機にやめたことです。毎年春と秋に大きなリサイタルがあるので、その前の2カ月はストイックに断酒していたんです。がんになったのは、20年間続けたそのパターンをやめて7年目でした。

 そうやっていろいろ反省はしましたが、根がラテン気質なので「ケセラセラ」(なるようになるの意)なのは相変わらず。その証拠に胃の5分の4を取ってしまった割には痩せてないでしょう?(笑い)

■何種類も飲んでいる薬は「食後のデザート」

 胃がんの手術後、ハイペースで食欲が回復して体形も声の調子も取り戻しました。ただ、翌年、暴飲暴食が原因で胆のう炎を起こし、朝方4時に救急車で運ばれてしまいました。再び順天堂医院にお世話になり、「年齢も年齢なので、今後のことを考えたら取った方がいい」ということで胆のうも切除しました。

 40代から胆石はよくできていたんです。痛くなる前に見つかっていたので何度か薬で散らしてもいたのですが、最終的に大小12個あったみたいです(笑い)。

 本当はもう少し食事制限しなくちゃいけないのかもしれませんけど、お酒と甘い物には弱くて、いまだに食べ過ぎの傾向はあります。「自己責任で」と妻にはくぎを刺されていますが、禁止が多いとストレスだしね(笑い)。

 ただ、血糖値は注意しています。糖尿病は40歳ぐらいからの持病ですから、ずっと血糖値を抑える薬は飲んでいましたが、まさかそんなに悪化しているとは気づかなかったので、胃がんになって助かりました。今は1日4回インスリンを注射。毎月主治医を受診し、2カ月ごとに順天堂医院で血糖値を調べてもらっています。

 血圧の薬2種類、逆流性食道炎の薬、腸のガスを出す薬など、何種類も薬を飲んでいますけど、ボクはこれらを「食後のデザート」と呼んでいます(笑い)。

▽あんとにお・こが 1941年、東京都生まれ。8歳からクラシックギターを学び、56年に故古賀政男に師事。59年にレコードデビューし「その名はフジヤマ」などのヒット曲で知られる。その後、本格的に作曲家として活動。日本ラテンアメリカ音楽協会会長を務め、国際親善に尽力している。来年デビュー60周年を迎える。

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