独白 愉快な“病人”たち

42歳で大腸がん手術 金哲彦さんは大量下血にむしろ感謝

手術のときは「腹筋だけは傷つけないように」と医師に伝えた
手術のときは「腹筋だけは傷つけないように」と医師に伝えた(C)日刊ゲンダイ

 新幹線のトイレで便器の中が真っ赤だったのを見たときは、スッと血の気が引きました。腹痛もないのに下痢のときのような水っぽいものが出たんですよね。いわゆる大量下血というやつです。 以前からトイレットペーパーに少し付く程度の出血はあったのですが、痔だと思っていました。真っ赤な便器を見て初めて「これは痔じゃないな」と思いました。

 でも、だからといってがんだとはこれっぽっちも思わなかったんですけどね。何の痛みもないし、体調管理にも万全を期してきましたから。ましてその日は、長野で行われたハーフマラソンにゲスト出場し、それなりのタイムで完走してきたばかりだったのです。

 当時、私は42歳でした。長野から帰宅してすぐに大腸内視鏡検査を受けにいきました。経験がある人はおわかりだと思いますが、大腸の中を空っぽにしなくちゃいけないので、前日から絶食して検査当日は朝から甘ったるい下剤を大量に飲まされました。それが手術よりもつらかった。トータル2リットルぐらいでしょうか。ガブガブ下剤を飲んではトイレに行くという行為を10回以上、繰り返すのです。ビールなら2リットルぐらい軽く飲めるんですけどね(笑い)。

■モニター画面にグロテスクな赤い塊

 診察台に上がったのはもう夕方でした。肛門の辺りに穴があいた紙パンツをはいてね(笑い)。リアルタイムで自分の腸の中を見られるなんてめったにないので、内視鏡のモニター画面を興味深く見ていました。すると、きれいなピンク色だった画面に急にグロテスクな赤い塊が見えたんです。さっき待合室に張ってあった「これが大腸がんだ」という写真にそっくりだったので、思わず「違いますよね?」と言ってしまいました。すると、医師は「大腸がん、間違いないです。すぐ手術した方がいい」と言いました。

 といっても緊急ではないので、その日は何事もなかったかのように家に帰されました。処方箋もなく、手ぶらで……。唯一、医師が出してくれたのは睡眠薬でした。自宅に帰って家族に伝えると、妻は割と冷静でしたが、母親には泣かれ、自分もかなり動揺しました。あの睡眠薬がなかったら眠れなかったでしょうね。

 その後、紹介された病院でCTや腫瘍マーカーなどの検査をして正式に「大腸がん」と診断されました。でも詳しいことは手術してみないとわからないとのことでした。改めて腹部を触ると、確かにグリグリしたものがありました。手術前は恐怖というより早く取ってスッキリしたいという思いが強かったです。

 手術では開腹してS字結腸を4~5センチ切除しました。お願いしたのはたった一つ、「腹筋だけは傷つけないように切ってください」でした(笑い)。

■「後から思えば、予兆はあった」

 無事に手術が終わり、何より嫌だったのは尿道カテーテルがつながれた状態です。手術翌日にはICUから一般病棟に移ったので、「尿道カテーテルを外してほしい」と訴えました。「自力で排尿できるなら」ということで試しに外してもらい、点滴スタンドを支えにして必死でトイレまで歩きました。でも、いざ尿を出そうという段階になると出せないんです。縫い目がつれるような激痛で自力排尿は無理でした。「そうでしょうね」と言いたげな医師に、その後すぐに麻酔なしでカテーテルを付けられてしまいました(笑い)。

 数日後、医師から「大腸がんステージⅢa」だったことを告げられました。つまり、がんのリンパ節への転移も少し始まっていたのです。さらに大腸の外側にがんがはみ出して、一部ほかの臓器に癒着も見られたようです。ただ、遠隔転移はなく、手術によって癒着もキレイに剥がれ、手術は成功とのことでした。

 後から思えば、予兆はいろいろあったのです。毎年の人間ドックでほぼオールAなのに、唯一「便潜血」だけは要再検査になっていたことや、下痢と便秘を繰り返していたこと。大量下血の1年前ぐらいに講演中、ろれつが回らなくなり、倒れて救急車で運ばれたこともありました。たぶん貧血だったのでしょう。でも、そのときは脳の病気は疑っても大腸だとは思いもしませんでした。

 振り返れば、当時NPO法人を立ち上げて、慣れない仕事でストレスがたまっていました。お酒を飲まないと眠れない生活が1~2年続いていたんです。あのタイミングで大量下血があってよかった。もう少し発見が遅かったらと思うとゾッとします。

 今はストレスをためないように心がけ、胃カメラや腫瘍マーカー検査も定期的に続けています。おかげさまで快食快便快眠です(笑い)。

▽きん・てつひこ 1964年、福岡県生まれ。早稲田大学の箱根駅伝2連覇に貢献し、卒業後は実業団で活躍。その後、小出義雄監督率いるクラブでコーチ、監督を経て、2002年にNPO法人ニッポンランナーズを創設し理事長に就任する。(株)ラントゥービー取締役、(有)スポーツエージェンシー代表取締役も務め、著書に「体幹ウォーキング」(学研プラス)などがある。

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