がんと向き合い生きていく

替えがきかない命を紙切れ一枚で決めてしまっていいものだろうか…

佐々木常雄氏
佐々木常雄氏(C)日刊ゲンダイ

 元公務員のSさん(68歳)のお話を続けます。4年前、妻のKさん(66歳)に肺がんが見つかり、手術、化学療法、放射線治療を受けましたが、その2年後に脳梗塞を発症し、嚥下性肺炎を繰り返していました。

 ある日、肺炎が悪化して入院。Kさんは血圧が下がり、意識がはっきりしなくなり、呼吸が止まりそうになりました。医師から「人工呼吸器を付けるかどうか」を問われたSさんは、「何もせずに安らかに眠ってもらおう」と考えましたが、息子と娘の希望で人工呼吸器をつなげることになったのです。

 1週間後には気管を切開して人工呼吸器がつながれましたが、Kさんの意識は戻らないままでした。しかし、肺炎は回復して鎮静剤も減り、2週間後には人工呼吸器が外されました。それでも、Kさんは意識が朦朧としていることが続いたのですが、ある時からKさんに笑顔が見られるようになったのです。Sさんは「もし、妻が『人工呼吸器は付けない』と記した事前指示書があったら、いまこの笑顔は見られなかっただろう」と感謝しました。

 肺炎が回復して2カ月後、Kさんはある老人施設に移りました。気管切開した穴も塞がり、平穏な日々が続いています。

 それまではほとんど実家には帰ってこなかった息子と娘でしたが、毎週日曜日には3人で時間を決めて、Kさんに会いに行きます。Kさんには構音障害があり、十分な会話はできませんが、それでも笑顔のKさんを見てみんなホッとしました。

 もう何年も家族4人が揃うことなんてなかったのに、こうして定期的にみんなが集まる。Kさんのいる施設が家族で安心できる、ホッとできる場所になっていることにSさんは気づきました。

「妻の笑顔で家族がこんなに幸せな時間を持てて、家族団らんができている。あの時、生かせてもらって良かった」

 Kさんの意識がまだ戻らなかった頃、Sさんは友人から「終末期の治療についてどうしたいか。本人が元気な時に自身の希望を書いておく事前指示書がある」ことを聞きました。インターネットで調べてみると、確かに終末期医療に関する事前指示書というものがあります。

 あらためてその説明を目にしながら、Sさんは「事前指示書では、書いた内容はいつでも修正・撤回できるとあるが、きっと『最期まで治療してほしい』と書く人は少ないのではないだろうか」と思いました。

■まずは「事前指示書」があるということを知り、自分の場合を考える

 こうも考えました。

「世界には70億の人がいるが、同じ命は2つとない。たったひとつの命、神様がくれた命、私たち家族には替えがきかないかけがえのない命……。そんな命を紙切れ一枚で、自分で決めてしまっていいものだろうか? これも超高齢社会の産物なのかもしれないな」

 ただ、そう思いながらも自分自身の場合を考えると、Sさんは「矛盾していることは分かっている。でも、やはり子供たちには迷惑をかけたくない。自分の事前指示書には『人工呼吸器は必要ない』と書いておこう」と言われます。

 高齢者の増加に伴って死亡者数が急増し、人口が少なくなっていく「多死社会」といわれるいまですが、意識がないまま長く生かされることを望む人はほとんどいないでしょう。しかし、Kさんのように人工呼吸器によって助けられた命が、家族に幸せな時間をもたらすこともあるのです。

 その人その人によって考え方は異なります。ただ、いまは「終末期の治療をどうしたいか」について、自身の希望を記す事前指示書というものがある。それを知った上で、自分自身の場合を考えてみることは大切なのではないかと思います。

 最期のあり方について、医療・介護者と話し合いを繰り返す「アドバンス・ケア・プランニング」(AC)という取り組みもあります。これについては、またあらためてお話しします。

佐々木常雄

佐々木常雄

東京都立駒込病院名誉院長。専門はがん化学療法・腫瘍内科学。1945年、山形県天童市生まれ。弘前大学医学部卒。青森県立中央病院から国立がんセンター(当時)を経て、75年から都立駒込病院化学療法科に勤務。08年から12年まで同院長。がん専門医として、2万人以上に抗がん剤治療を行い、2000人以上の最期をみとってきた。日本癌治療学会名誉会員、日本胃癌学会特別会員、癌と化学療法編集顧問などを務める。

関連記事