天皇の執刀医「心臓病はここまで治せる」

理想の去り際は「惜しまれつつ、されど潔く」

天野篤氏
天野篤氏(C)日刊ゲンダイ

 心臓外科医になって30年を越え、これまで8000例近い手術を行ってきました。かつて手術をした患者さんも高齢な方が増え、亡くなられたという連絡もいただきます。昨年も、以前に私が執刀した4人の患者さんが亡くなりました。みなさん85歳を越えて天寿を全うされたのですが、医師としてさまざまなことを考えさせられます。

「病気を治す」ことの先には、「健康寿命をつくる」というテーマがあり、健康寿命の終末には「死」があります。死というものは、医師として大きな命題で避けて通ることはできません。

 心臓手術を受けた患者さんの多くは、その後も一生懸命、外来に通ってくれます。心臓の機能が回復して元気な姿を見せたいという思いがあるのでしょう。しかし、だんだん高齢になって体力が落ちてきたり、ケガをしたことがきっかけになったりして、いつの間にか通院しなくなってしまいます。そして、「しばらく顔を見ていないな」と思っていると、亡くなったという知らせが届くケースが多いのです。

 私はあくまでも手術を執刀したというだけで、その患者さんのかかりつけの担当医ではありません。ですから、診察する機会も数カ月に1回程度です。それでも、亡くなった知らせを聞くと、あのときほかに何かかけられる言葉があったのではないか、もっとお話ししておけばよかったのではないか……といった気持ちが湧き上がってくるのです。

 外来で患者さんにお会いするたびに、「執刀医として、この患者さんがいつ亡くなっても思い残すことはない」といった覚悟はどうしてもできません。また3カ月後に来てくれれば、またお会いできればいいなという思いがあるのです。

 そうした患者さんと多く接していると、自分自身の去り際についても考えさせられます。

 私には妻、長男、長女の家族がいますが、その家族に見守られながら安らかに息を引き取る最期は想像していません。自分勝手かもしれませんが、ひっそりとしかし厳かに逝きたいのです。自分の死が家族の負担になってしまうかもしれないという思いからではありません。自分の生きざまとしてそう潔くありたいのです。

■外来で患者さんの顔をみかけなくなったなと思っていると…

 潔い去り際といえば、今年1月に70歳の若さで亡くなった星野仙一さんが頭に浮かびます。プロ野球の投手、監督として数々の実績を残された星野さんは、16年の7月に膵臓がんが見つかったそうです。しかし、病状は家族と副会長を務めていた楽天の球団幹部にしか知らされておらず、訃報を知らされた親しい関係者や友人は耳を疑ったといいます。

 私が診ている患者さんの中に、明治大学の野球部で星野さんと一緒にプレーしていた方がいらっしゃいます。星野さんが亡くなったとの知らせを受けたとき、「ずっと親しくしていたのに、自分には何も言ってくれなかった」とひどく落ち込まれていました。「最後に会ったときにまたメシでも食いに行こうと約束して別れたのに、それも果たせなかった……」と、まわりから見ても無気力な状態になってしまったのです。

 自分が不治の病に侵されたとき、周囲には知られたくないと考える人もいます。肉親だったり、親友だったり、近しい人が自分が病気だと知ったとき、自分のことのように気遣ってくれる。そうした人たちに病気であることを伝えたら、いろいろと煩わせてしまうことになるし、これまでとは関係性が変わってしまう。それを嫌がる人がいるのです。

 おそらく、星野さんも男としてそうした気持ちがあったのではないでしょうか。残された人が無気力になってしまうのはその気持ちに報いていないのではないか。落ち込んでしまった患者さんに、私はそう言葉をかけました。死を迎えることによって肉体は滅びますが、魂も永遠の眠りにつくか、そこから新たな覚醒(評価)を得るかは残された人たちの思い一つです。生き残るということはその責任を果たすことに他なりません。

 死に対する考え方は人それぞれで、正解も不正解もありません。惜しまれつつ去る、されど去り際は潔い。私にとっては、それが理想の“死にざま”だと思っています。

天野篤

天野篤

1955年、埼玉県蓮田市生まれ。日本大学医学部卒業後、亀田総合病院(千葉県鴨川市)や新東京病院(千葉県松戸市)などで数多くの手術症例を重ね、02年に現職に就任。これまでに執刀した手術は6500例を超え、98%以上の成功率を収めている。12年2月、東京大学と順天堂大の合同チームで天皇陛下の冠動脈バイパス手術を執刀した。近著に「天職」(プレジデント社)、「100年を生きる 心臓との付き合い方」(講談社ビーシー)、「若さは心臓から築く 新型コロナ時代の100年人生の迎え方」(講談社ビーシー)がある。

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