独白 愉快な“病人”たち

2度も生かされて…空間デザイナー黒田朋子さん闘病を独白

黒田朋子さん
黒田朋子さん(C)日刊ゲンダイ

 風邪をひいたかな? と思って、近所の耳鼻科を受診しました。処方薬でいったんは軽快したものの、喉の腫れや微熱が引かず再受診。「何か他の病気の可能性があるかもしれない」と言われ、大きな病院で検査したところ、診断は「急性骨髄性白血病」でした。

 即入院となり、およそ500日の入院生活が始まりました。2011年5月、結婚2年目の32歳のことです。先生からは「あと数日遅かったら命を落としていたかもしれない。最低でも1年は入院して治療になります」と告げられました。

 ただ、自覚症状もほとんどなかったので、周りで起こっていることすべてが半信半疑でした。

 病気や治療の説明を受けて同意書にサインし、すぐに1クール目の抗がん剤治療が無菌室で開始されました。「治るのか、生きられるのか」を調べ始めると、同時に抗がん剤の副作用で「不妊」になることも知りました。先生に確認してみると、「不妊は同意書にありましたよね。生きられるからいいじゃないですか」と言われたのです。その言葉は、闘病に向かおうとする私を突き放し、愕然とさせました。

 確かに、同意書の最後に「不妊」の文字があります。ただ、私も家族もサインする時は「生きられるのか?」状態だったので、目には入ったけれど心に留まらずだったんです。病気が治っても子供が産めないのなら……と、自分の存在意義さえも問い始めました。

 生殖医療も行う同病院で何とか将来の妊娠の可能性を残す方法はないのか、担当医に伝えたのですが、取り合ってもらえません。そこで、卵子凍結などを行う専門クリニックを自分で探し、コンタクトを取りました。本来なら1クール後の一時退院は7日間でした。

 しかし、採卵して卵子凍結をするため21日間の一時退院をしました。もちろん担当医からお墨付きはもらえず、実際、2クール目には数値が悪化しました。

 でも、その選択をしたことで「やれることはやった」となぜかすがすがしい気持ちになれました。むしろ、たった一つでも卵子凍結できたことで、人生に希望が持て、前向きに闘病できる気になったんです。

■3年後に再発がわかり…

 それから5クールの抗がん剤治療を経て、骨髄移植を行いました。“生かされている”人生のありがたさや重みに気づきましたね。その後、退院許可が下りて帰宅したのですが、一日に20~30回もの下痢や腹痛に見舞われ、再入院することになりました。胃や小腸、大腸の粘膜がほぼ剥がれ落ち、口内炎も口いっぱいに広がって、合併症が始まっていたのです。

 激しい痛みを緩和するため、モルヒネ投与を開始しました。幻聴や幻覚があって、その頃のことはあまり覚えていません。結局、半年くらいで回復したけれど、食欲減退で食べ物は喉も通らず、食べること自体が苦痛で仕方ありませんでした。味覚障害も出て、チョコレートが醤油、コーラがコーヒー味になりました。

 5年で完治と呼ばれる中、およそ3年後の2016年10月に再発がわかりました。もし骨髄移植から4年を迎えたら、凍結卵を戻すための準備をしようと思っていた矢先だったので、なおさら「すべてがリセット」されたようでした。あの苦しみを越えてもまだ、白血病細胞が残っていたのかという絶望と、またあの地獄のような日々を経験せねばならないのかという思いでした。

 ただ、幸いにも同じドナーさんからリンパ球を提供してもらうことができたので、ドナーリンパ球輸注療法を受けることができました。

 現在は、経過観察として月1回の血液検査を受け、卵子は凍結したままです。生活そのものに気をつけるというよりも、日常生活を当たり前に自力で送ることができるようにしようと考え、体に良いものを食べるようにしています。

 病気になってよかったなんて1ミリも思いません。ただ、2度も生かされたことで、「苦しみのある人を助けなさい」という役割を与えられた気がして、不妊・産む・産まないに向き合う女性たちをサポートするための会社を立ち上げました。

 体験を経たからこそ伝えられるものを大切に、誰かの人生を少し咲かせるお手伝いをしたいと思っています。

▽くろだ・ともこ 1978年、名古屋市生まれ。京都市立芸術大学大学院卒業後、インテリアデザイナーとして活躍。2009年に独立。結婚後、11年に急性骨髄性白血病を発症。抗がん剤の副作用による「妊娠・出産の壁」を機に株式会社ライフサカスを創業する。不妊・産む・産まないに向き合うすべての女性たちへ向けたウェブメディア「UMU」の運営及び不妊治療サポートアプリ「GoPRE」の開発をしている。

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