独白 愉快な“病人”たち

切れた靱帯放置で歩行困難…ブル中野さんは膝手術前も壮絶

痛みを我慢していた当時は「のちに歩けなくなるなんて思いませんでした」
痛みを我慢していた当時は「のちに歩けなくなるなんて思いませんでした」(C)日刊ゲンダイ

 左脚の「変形性膝関節症」で人工関節を入れる計画でしたが、結果的にはそれをせず、胃を約10分の1の大きさにする手術を受けました。「どういうこと?」と思うでしょうが、手術した3年前の私は体重が100キロ近くあったんです。まずは体重を落とさないと人工関節にもできないということでした。でも、胃を小さくしたことで想定以上に痩せたので、人工関節は不要になりました(笑い)。現在、身長170センチ、55キロです。

 もともとの原因は、現役時代に負った左膝の靱帯損傷だと思います。試合中に「これは切れたな」と思ったのですが、当時25歳だった私は診察も受けずケガを放置しました。試合の予定が詰まっていたこともありますし、少しでも休めば今のポジションを誰かに取られてしまうと思ったからです。のちに歩けなくなるなんて思いませんでしたし、15歳のプロレス入門時から「痛みはガマン」という教えで育っていたので、耐えてしまったんです。

■プロゴルファーを目指して渡米

 でも、さすがに格闘技には限界を感じて、29歳でプロレス界からフェードアウトしました。そして密かに目指したのがプロゴルファー。一度もやったことなかったのですが、やれる気がして(笑い)。

 ゴルファー修業は体重115キロの悪役レスラーから65キロまでダイエットして始めました。誰にも「ブル中野」だとは気づかれないまま、ゴルフ場で掃除やポーター、キャディー見習をこなし、仕事が終わった後にやっと練習するという日々でした。その後、渡米して約10年挑戦しましたが、結局プロにはなれずじまい(笑い)。

 それから東京でバーを始めたのです。膝の痛みに耐えられなくなったのはその頃です。膝の名医と呼ばれるところへ行って「靱帯が切れているので治したい」と言うと、「靱帯切れたら歩けないよ」と言われました。でも、膝を伸ばす検査をすると通常3~4センチのはずの数字がそれ以上に伸び、検査技師が「こんなに伸びる」と言っていたので、たぶん切れていたのでしょう。

 切れた靱帯を放置していたことで、膝関節のクッションの役目をする半月板が横にズレて飛び出し、神経にさわっていたようです。一度は半月板の飛び出た部分を切除して良くなったのですが、時が経つと再び痛み出しました。2010年に結婚をして太ったのも原因だと思います。

 決定的な打撃は、12年にフェードアウトしていたプロレスの引退試合が決まったことです。実は結婚して太った後、テレビ番組のダイエット企画があり、65キロをキープしていました。でも現役当時の体に戻すため、無理やり100キロ近くまで太りました。それが最後、もう痩せたくても痩せられない体になってしまったのです。

 当時45歳。膝の痛みがピークを迎え、走ることはもちろん、階段を上れなくなりました。それでもお店に出て、立ちっ放しで接客する日々。そのうち、夫に支えられなければトイレにも行けない状態になりました。

■手術で胃の大きさを10分の1に

 47歳になって病院へ行くと、人工関節の手術を勧められました。でも「かなり痩せないと手術できない」とのことでした。自力でのダイエットは無理だったので、胃を10分の1にする腹腔鏡下胃スリーブ切除術をすることになりました。胃を細くして10分の1の容量にしたのです。

 入院は3日間でしたが、半年間はほぼ寝たきり。ペットボトルのキャップに入れたわずかな水も吐き出すほど、何も受け付けませんでした。点滴で生き延び、ゼリーのような半固形物が食べられるようになったのは術後約1カ月目。100キロほどあった体重が見る見る減っていきました。人によってはこの手術でも痩せられない人がいるらしいのですが、私は思った以上に手術の効果があったので、人工関節にする必要がなくなったのです(笑い)。

 術前に希望していた「普通に歩けること」「小走りできること」「階段が上れること」は、今すべてかなっています。階段を下りるのは多少時間がかかりますが、夫と一緒に旅行に行けるくらいの体は取り戻せました。

 若い時は「体を大切に」なんて考えたことはありませんでした。体は痛めつけて当たり前。自分を人間とも思っていませんでした。だからゴルフ修業時代、腕に青アザができた時、「ああ、普通の人間になっちゃったんだな」と思って寂しかったことを覚えています。

 いろいろありましたけれど、それらを全部のみ込んで、今こうしてみなさんに話せる自分になれてよかったと思っています。

▽ぶる・なかの 1968年、埼玉県生まれ。15歳で全日本女子プロレスに入門し、悪役レスラーとして一時代を築く。30歳からプロゴルファーを目指し、約12年を費やすが実らず。42歳で結婚後、44歳でレスラーとしての引退試合を行った。現在は東京・中野で「ガールズ婆バー・中野のぶるちゃん」を経営しつつ、プロレス解説や各種講演に出演。

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