独白 愉快な“病人”たち

元Sスケート岡崎朋美さんは椎間板ヘルニア手術で体重8㎏増

岡崎朋美さん
岡崎朋美さん(C)日刊ゲンダイ

「ちょっと動けないんですけど……」

 それは大会当日の朝でした。滞在したホテルのベッドから起き上がろうとしたら腰が痛くて身動きが取れず、枕元の電話を掴んで監督にそう伝えました。チャイムが鳴ってドアを開けにいくときは、横に転がりながらベッドからずり落ちて、床を這っていった感じです(笑い)。

 前日はなんの兆候もありませんでした。むしろ調子が良くて「メダルもいけるな」なんて話していたくらい。でも、朝起きたら激痛。ただ、“今日が終わればオフ”というシーズン最後の日でしたし、「多少無理をしても大丈夫」という気持ちもあり、慌てたりはしませんでした。

 同行していたトレーナーに応急処置で痛みを止めてもらい、大会では6位入賞することができました。それでも2年後にはソルトレークシティー五輪があるという時期だったので、早く処置した方がいいなと思いました。そもそもスピードスケートは腰を曲げたまま走るので、腰への負担が大きな競技です。一番初めの兆候は、実は高校2年生のときなんです。ウエートトレーニング中にギックリ腰をやってしまって、それ以来、疲れると少し痛みが出て、整体や整骨院に通う10代でした。それでも、社会人になって実業団に入るとハードトレーニングで筋肉が増え、しかも念入りなケアがあったので腰痛はほとんどなく、長野五輪での銅メダルにつながりました。

 腰痛が頻度を増したのは、長野五輪の後、いったんトレーニングを軽めにした1年を経て、ハードトレーニングを再開した辺りからです。軽いトレーニングに合わせて、体のケアも軽くしてしまっていたツケが回ってきたんですね、きっと……。

 6位入賞でシーズンが終わった2000年4月、病院を受診すると「背骨の4番と5番ぐらいの椎間板(軟骨)が飛び出し、神経を圧迫している」とのことでした。いわゆる「椎間板ヘルニア」です。それを聞いたときすぐに自ら「手術したい」と言いました。当時は“手術したら引退”となるスポーツ選手が多かったので、監督は首をタテに振りませんでしたけどね。私はなんとなく「大丈夫だろう」と根拠のない自信があったんです。先生も長くお世話になっている方だったので信頼できましたし……。

■手術よりダイエットの方がつらかった

 手術の傷口は5センチぐらい。椎間板の出っ張っている部分だけつまんで抜き取ったような感じです。術後、見せてもらったら、なんだか鶏のささみを少しほぐしたみたいなものでしたよ(笑い)。

 術後3日間は熱が出て、痛みもありましたが、1週間もすると普通に歩けて階段の上り下りもできました。すでにだいぶ動けそうでしたが、「今まで練習漬けの人生だったからここは思い切り休もう」と決めて、1カ月間はベッドの上にいました。でも少し楽しみ過ぎちゃいまして、かなり太ったんです(笑い)。

 内臓は健康なので、栄養満点の食事はもちろん、お見舞いで頂くようかんなどももれなく一人で食べていました。個室なので誰にお裾分けすることもなくね。その結果、1カ月で8キロ太って、二重まぶたが一重になるくらい別人になりました(笑い)。

 すぐに痩せられると思っていたのですが、退院後しばらくは振動系の運動はNGと言われ、走ったりできないんです。仕方なくエアロバイクを中心に元の体重60キロを目標にダイエットしました。でも、スムーズに痩せられたのは63キロまで。あと3キロがなかなか落ちない。そこからは栄養士さんに相談して飲食の制限や脂肪燃焼サプリを飲んだり、いいと思うあらゆることをやったりして、なんとか目標を達成しました。手術よりそっちの方が何倍もつらくて大変でしたよ(笑い)。

 選手として復活できるかどうかはわかりませんでしたが、「何事もやってみなければわからない」というのが持論なんです。何か手段があればダメモトでやってみる。諦めなかったことが手術をしても復活できた要因だと思います。

 10代の頃、橋本聖子さんが所属していた名門の実業団に入ったときもダメモトでした。私の周りでは「すぐ帰ってくるだろう」という人が大半でしたから……。

 病気でも同じ。もちろん病気にもよりますけど、体が持つ治癒力にプラスして「復活できる」という気持ちが、とても大きく作用するんだと思います。それを証明したいという思いもありました。

 選手を引退した今も、筋肉を落とさないようにジム通いやランニングをしています。それは腰痛ケアでもありますけど、もう二度とダイエットはしたくないからです(笑い)。

▽おかざき・ともみ 1971年、北海道生まれ。高校卒業後、スピードスケートの名門チーム「富士急行」に所属。98年の長野五輪で日本女子短距離選手として初の銅メダルを獲得した。通算5回の冬季五輪に出場し、2013年に現役を引退。現在もスピードスケートの普及に努め、メディア出演、講演、スポーツイベントなどに積極的に参加している。

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