友人Oさんの弟Mさん(当時55歳)と、その奥さまUさん(当時53歳)のお話です。ずいぶん前のことですが、それでもその頃の「がん告知」は、患者自身にすべてを告げるようになっていました。
ある時、Oさんから電話で「Uさんに血便があった」と相談があり、私の勤務する病院の大腸外科に紹介したところ、大腸がんが見つかって手術となりました。手術では腹腔内のリンパ節にがんの転移が認められ、手術後に化学療法が行われましたが、その後、肺に転移が見つかります。検査や治療法の選択は、すべて担当医とUさんとが相談して決め、夫のMさんはいつも傍らにいましたが、言葉を挟むことはなかったようでした。
Uさんは化学療法の副作用に耐えて頑張りましたが、その後、がんは左大腿骨、骨盤にも転移し放射線治療も受けました。Uさんは心の面でも落ち込み、精神科医の支援を受けながらの闘いでした。入退院を繰り返しての2年間でしたが、がんの進行は速く、最後はホスピス病棟で過ごされました。
Uさんが亡くなられて4年ほどたった頃、Mさんの兄Oさんから電話がありました。
「弟が動けない状態です。佐々木先生にお願いしたいと言っています」
救急車で来院されたMさんは別人のように痩せ細り、血圧も下がっていました。奥さまを亡くしてひとり暮らしだったMさんは、数カ月前から固形物が喉を通らなくなり水分しか取っていなかったそうです。
点滴など、緊急の処置で血圧が安定したところで、全身のCTスキャンを行うと、縦隔に大きく広がった食道がんがあり、腹腔内のリンパ節、そして肝臓には大きな多数の転移を認めました。私は愕然としながら「どうしてこんな状態になるまで我慢していたのだろうか?」と思いました。Mさんはその後に意識がなくなり、3日後に亡くなられました。
■がん治療の環境は大きく変わっている
私は考えました。
奥さまのUさんががんと闘っている間、Mさんは、ずっと傍らで一緒だった。Uさんがどんどん悪化していく状態を見つめながら、耐え難い精神的な苦痛があったのではないだろうか。もしかして、あの頃に「がんとは闘わない。妻と同じような闘いはしない」と決心されたのではないか? そして、食べ物をのみ込めなくなった時、今度は自分ががんになったことに気づいていたのではないだろうか?
Mさんは水分しか飲めなくなり、近くの晩酌屋にも通えなくなり、日に日に体力がなくなり、それでも病院に行こうとはしなかった。その自分をどう見つめて過ごしたのだろうか? きっと孤独に耐えた毎日だっただろう。そして、どうにもならなくなってから「佐々木に連絡してくれ」と口にしたのだ。
この私の想像を兄Oさんに話してみました。Oさんは「自分もそうだろうと思った。弟は、どうにもならなくなるまで耐えていたんだろう。その精神力は並のものではない」と、うなずかれていました。
奥さまのUさんががんと闘っている時、われわれ医療者は、患者であるUさんばかりに気を取られ、夫のMさんのことは、ほとんど気にかけていなかった……。
私には後悔が残りました。がんを早く見つければ、Uさんのような状況になることはないし、苦労せずに治るのだということを、Mさんにたくさん言ってあげればよかった……。
しかし、Mさんがあれほどの状態になってから「佐々木先生にお願いしてくれ」と口にしたのは、最期をつらくなくしてほしいということだったのか? それとも「生きたい」という気持ちになったのだろうか? 本当のところは分かりませんが、私を指名してくれたことは重く心に残りました。
今はがんの診断も治療法もかなり進歩し、たとえ進行したがんでも治癒する方が多くなってきています。そして、早期からの心と体の緩和ケアも充実してきました。患者さん本人はもちろん、その周囲の方々も含めたがん医療の環境は、大きく変わっているのです。
がんと向き合い生きていく