独白 愉快な“病人”たち

全盲ドラマー佐藤尋宣さん 網膜色素変性症との38年を語る

佐藤尋宣さん
佐藤尋宣さん(C)日刊ゲンダイ

「オバチャン、米買いたいからそこまで連れてってくれる?」

 20代を過ごした大阪では、買い物に行くとよく店のオッチャン、オバチャンの肩を借りて店内を歩きました。そうすると「ここだけの話やで。米はあした安売りや」と教えてくれるんです(笑い)。

 困ったことは何でも周りの人に聞く。それがどんな顔のどんな人かは関係ない。

 ボクら全盲の人間は、そばにいる人を頼らざるを得ないんです。でも人と話すと、人のいろんな面が見えてくるから案外、面白いですよ。

「網膜色素変性症」は光を感じる組織の網膜に異常がある、生まれつきの病気です。

 物心ついたころから暗いと見えない弱視で、大学進学した頃に全盲になりました。病院へは定期的に通っていましたが、治療する術はなく、視野がどれだけ狭くなったかや、視力がどれだけ落ちたかを検査していただけ。今は太陽ぐらい強い光でやっと明るさを感じる程度です。

 小学生時代は、たとえばノートの字は4Bの鉛筆で大きく書けば見えていました。5~6年生になるとフェルトペンじゃないと見えなくなりましたが、目の前の人の表情ぐらいはわかりました。

 学校は、高校1年生までずっと普通校でした。しかもボクの親は“転ばぬ先の杖”を持たせないタイプなんです。先生が「尋宣くんへのサポートはどのようなことをすればいいですか?」と尋ねると、「できないことは本人に聞いてください」と言うんですよ。

 だからボクは、「こうしてほしい」と思うことは遠慮せず発言しましたし、体育の授業では「俺が尋宣と一緒に走るよ」とか「尋宣が入った時はこういうルールにしよう」とか、子供同士でいろいろ工夫するとてもいい環境でした。

■大学生で全盲に「もう来たか」と

 理不尽さを感じたのは高校受験の時です。

 当時はまだ点字が苦手だったので、墨字(点字に対しての一般的な字の意味)での受験(代読・代筆を要するのでひとり別室で行う)を希望しました。が、「前例がない」とのことで、苦手な点字で受験することになったんです。

 でも、解答欄の位置を聞いても試験官が教えてくれなくて、頭にきたボクはその後の試験の答案をすべて白紙で提出しました。抗議のつもりでしたが後日、中学の先生にも「試験を受けさせてやったのに白紙とは何だ」と叱られてしまい、憤りを感じました。

 結局、墨字入試ができた別の高校に入学し、2年生からは本格的に点字を学ぶため、視覚支援学校に転校しました。

 まったく見えなくなったのは、1浪して大学に受かった後でした。ふと気づいたら友達の表情が見えていなかったんです。いつか見えなくなるとは聞かされていましたが、「もう来たか」と思いました。でも、落ち込んだのは3日ぐらいかな(笑い)。

 わが家は友達のたまり場で、当たり前のように誰かがいました。彼らは平気で「これ、俺のだから食うなよ。名前書いといたから」と言って、お菓子を置いていったりするんです。こっちは「いや、(書いても)見えねぇし」ってなるんですけどね(笑い)。

■理不尽なことも「ネタになる」と考えれば面白い

 そんな環境だったので、人生を悲観することなく青春を謳歌し、10年前には結婚もできましたし、今3歳になる子供もいます。見えなくなって“これが大変”ってことはあんまりないですね。

 いや、いろいろあるんですけど「周りにこれだけたくさんの人がいるんだから、誰かが助けてくれるだろう」と思っています。いろんな人を渡っていく人生、こんな生き方もアリなんじゃないかなと。

 小学校の講演でも子供たちによく言うんです。「そもそも人は、ひとりで生きているわけじゃない。買い物はひとりでできても、会計は誰がするの? 商品は誰が作っているの?」ってね。ひとりだけで生きられないのは、誰しも一緒ですよね。

 ただ、「見えない人≒助けるべき人」だと思ってほしいわけではありません。ある小学校で、カスタネットを鳴らしてボクを先導してくれた子がいました。それは素晴らしいアイデアです。でも、ボクは「肩につかまらせてくれた方が歩きやすいな」と正直に言います。そういう当事者同士の対話がとても大事だと思っているので、先生には口出ししないようにいつもお願いしています。

 最近、「円錐角膜」という新たな目の病気になりました。角膜が薄くなって変形する病気で、痛みがあるのが悩みの種。まだいい治療法が見つからないので、痛みとの闘いはしばらく続きそうです。

 理不尽なことも、不便なこともたくさんありますけど、「ネタになる」と考えれば面白い。この前も点字ブロックの上に大きな機材を置いて選挙演説していた人がいたんです。がっかりでしたよ。でも「これ、ネタになるやん」って思わず笑っちゃいました。

▽さとう・ひろのり 1980年、宮城県生まれ。網膜色素変性症によって物心ついた頃から弱視で、21歳の時、全盲になる。16歳から始めたドラムで才能が開花し、大学卒業後はプロドラマーとしての道を歩む。現在、演奏活動と並行し、音楽教室で講師を務める一方で、独自の障害理解プログラムを作成し、教育機関、企業、自治体で実施している。

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