がんと向き合い生きていく

無理な「在宅」で最期まで“自分らしい暮らし”ができるのか

佐々木常雄氏
佐々木常雄氏(C)日刊ゲンダイ

 がん対策の会議に出席するたび、終末期の「在宅」について本当に大丈夫だろうか? と、私はいつも心配しています。

 病院では療養型病床は激減し、60日以内退院の在宅支援病棟ができています。老健施設でも在宅復帰率をカウントする時代となり、いまは「時々入院、ほぼ在宅」なのだそうです。

 かつて、妻が在宅で私の両親の介護にあたったことがあります。次第に2人とも下の方の世話が必要になる回数が増えました。よく「人間の尊厳」といいますが、老人が自分で排泄をコントロールできなくなった時の情けなさ、自分のプライドを捨てなければならない親も哀れでした。便を廊下にこぼしたり、布団を汚したり……。自分で拭いて洗って済ませようとして、それがかえって周りを汚してしまいました。

 妻は頑張りました。一日に何回も老人2人の尻を拭き、食事を用意して……。風呂の時は介護のヘルパーさんが来てくれても、「死んだ方がいい」と言われると、妻もつらくなったといいます。

「施設に勤めている人は8時間の勤務時間で解放される。大変な仕事だけれど、きっとそれで優しくしてあげられるのだと思う。それが2人を在宅で24時間、いつまで続くか分からない。赤ちゃんのおむつを取り替えるのとは違うのよ」

 妻は私にこう言っていました。

 時には、ショートステイで1週間ほど2人を施設に預かってもらいました。しかし、その時は妻の体の負担は癒やされても、心の負担は癒やされませんでした。

「自分は優しくしてあげたいのに……」

 妻は時々、父母に厳しいことを言ってしまって、2階に上がってひとり自分の情けなさに泣いたといいます。そして、こんなことを言い出したのです。

「ノイローゼになってしまいそう……私が先に死ぬ」

■親に向かって大きな声を出す自分が情けなくなった

 試しに特養老人ホームを見学に行くと300人以上の待機者がいて、何年待つか分からないと言われました。

 朝早くから夜遅くまで、重症がん患者を診る私の勤務は続きました。ある年の正月、私が父母の介護を担当しました。夜中、呼び鈴が鳴りました。行ってみると、トイレに立った父が「汚してしまった。悪いなー」と言います。私は「大きなおむつだから、そのまま動かないでいてと言ったでしょ! こんなに汚してしまって!」と思わず声を張り上げてしまいました。親に向かって大きな声を出す自分自身が情けなくなりました。私はようやく、妻ひとりでの介護はもう無理だと実感したのです。

 その後、両親を老健施設に入れていただきましたが、3カ月ごとに別の施設に移るのも大変でした。入所後、妻は食事の介助に行って、前よりも優しくしてあげられたといいます。精神的にも楽になったのです。父母も笑顔を見せることが多くなりました。

 父は96歳、母は95歳でともに療養型病院で亡くなりましたが、これらの施設がなければ、我が家は崩壊していたと思います。

 いま、日本の世帯構成は1世帯2・47人、東京は2・03人と減ってしまっていて大家族の時代ではありません。一番の問題は、要介護者を24時間、誰が面倒みるかということです。24時間ヘルパーさんを雇える経済的に余裕のある方は多くありません。たとえ訪問看護、往診、介護サービスが来ても、みてもらえるのは訪問したその時だけです。

 国は、団塊世代が75歳以上になる2025年をめどに「重度な要介護状態となっても住み慣れた地域で、自分らしい暮らしを人生の最後まで続けることができるよう、住まい・医療・介護・予防・生活支援が一体的に提供される地域包括ケアシステムの構築を実現」すると掲げています。

 一方で、往診医である知人からは、こんな言葉を聞きます。

「行ってみたら亡くなっていた。また孤独死だった」

 亡くなった方は本当に「自分らしい暮らし」を人生の最期まで続けることができたのでしょうか? 超高齢社会において、がんでも、がんでなくとも、無理な在宅にはならないようにお願いしたいと思っています。

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佐々木常雄

佐々木常雄

東京都立駒込病院名誉院長。専門はがん化学療法・腫瘍内科学。1945年、山形県天童市生まれ。弘前大学医学部卒。青森県立中央病院から国立がんセンター(当時)を経て、75年から都立駒込病院化学療法科に勤務。08年から12年まで同院長。がん専門医として、2万人以上に抗がん剤治療を行い、2000人以上の最期をみとってきた。日本癌治療学会名誉会員、日本胃癌学会特別会員、癌と化学療法編集顧問などを務める。

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