がんと向き合い生きていく

「夢」が死の恐怖を乗り越える術になる患者さんもいる

佐々木常雄氏
佐々木常雄氏(C)日刊ゲンダイ

 国文学者の川平ひとし氏(当時57歳)は、ある病院で消化管がんの手術を受け、肝転移で再発して「もう治療法はない」と宣告され、奈落に落とされました。それから私たちの病院に転院され、ご自身の体験をこう話してくださいました。

「予想もつかない何かのきっかけで安寧になれる」「人の心の奥には、誰しも安寧になれる心を持っている」「夢で古い友人と会ったことで生きる確信を得た」

 その時は「先生に負担をかけるから」と言って、これ以上は話されませんでしたが、後日、詳しい内容について奥さまからお手紙をいただきました。以下がその抜粋です。

 ◇  ◇  ◇ 

 夢に入るや否や、それは普段見るものとは全く異なった世界のものである事が感じられた。尋常でない強い緊張感と圧迫感が張り、どこか聖性を帯びた秘儀的な恐ろしさが充満し、戦慄を覚えたが激しく魂は揺さぶられ、魅了された。

 夜、南島の夜だった。珊瑚礁の上を波が静かに寄せ、月が皎皎と恐ろしいばかりに美しく波打ちぎわを照らしていた。

 ザクザクと波打ちぎわを歩く足音とともに一人の黒い人影があった。誰か、すぐにわかった。幼少年期をともに島で過ごした、そして既に海難事故で死んでしまったはずの古い友人だった。生きていたのか。

 彼は全くふり向かず岬の方向に向かって確信に充ちた早足で歩いていった。私はなつかしさのあまり後を追った。彼方には濃い影にいろどられた黒々とした岬が見え岬の先端には教会が建っていた。彼はなれた足つきでそこを目指していった。

 私は彼を見失うまいと後姿を追っているうち、突然教会の前に立っていた。彼の姿は既に見えなくなっていた。

 一転、真昼だった。私は何もない岬の先端に唯一人、立ち尽くしていた。眼前には ひたすら青くまばゆい海が渺茫とひらけていた。海はたゆみなく運動しつつも漲り又静止していた。

 遥か、遥か彼方……。そして太陽は またかがやきつつ私の真上にあった。

(ここまでのことは歌集「疾中逍遥」102ページ、103ページに記されています)

 この夢は深い印象を与えました。夢を「見た」のではなく「体験した」という以外に表現できないようなことだったのです。

 秘儀的な驚きと恐ろしさに魂が揺さぶられるような体験を、夢を媒介になぜしたのか。また、なぜすでにこの世の人でない昔の友が夢で道案内をしてくれたのか。川平は、朝目覚めてすぐにこれらの解明に取り組むことを激しく強いられました。そのまま放置できないほどの強い力をこの夢は持っており、そうしないではいられなかったのです。

「背を見せているだけで友人は何も言わなかった。でも言いたげであった。だから自分で解かなければならない」

 夢に強いられ、現実での作業が始まりました。 友人は画家でした。友人が伝えたかったことは何か。手がかりを求めて、友人の作品の写真を集めました。一作だけ、真作が身近にありました。その画からはメッセージを発見できませんでした。しかしその画の下に、全く異なる絵が見つかりました。真作の下に潜んでいた描きさしは、「ピレネー山」の画でした。 「ピレネー」と言えば、川平は個人的に一つの強いイメージを抱いていました。青年期の愛読書の一つに、ヴァルター・ベンヤミンの著作がありました。ユダヤ人ベンヤミンはナチスに追われ、仲間とともにピレネー越えを敢行しますが、途中で追いつかれたと思いすごし、絶望のあまり生還の可能性を自ら捨て、自分から命を絶ってしまいます。しかし、希望を捨てなかった仲間はピレネー越えを成功させました。

「絶望するな、ピレネーを越えよ」

 これが友人のメッセージであると解けました。川平は夢から生きる確信を得たのでした。

 ◇  ◇  ◇ 

 夢も死の恐怖を乗り越える術のひとつになるのです。

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佐々木常雄

佐々木常雄

東京都立駒込病院名誉院長。専門はがん化学療法・腫瘍内科学。1945年、山形県天童市生まれ。弘前大学医学部卒。青森県立中央病院から国立がんセンター(当時)を経て、75年から都立駒込病院化学療法科に勤務。08年から12年まで同院長。がん専門医として、2万人以上に抗がん剤治療を行い、2000人以上の最期をみとってきた。日本癌治療学会名誉会員、日本胃癌学会特別会員、癌と化学療法編集顧問などを務める。

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