がん発症の妻にしてあげた10のこと

<8>「闘病」と言わない 病気を受け入れる心境に達していた

妻・佳江さんが愛していたチェブラーシカ
妻・佳江さんが愛していたチェブラーシカ(C)日刊ゲンダイ

 小宮さんは、妻の病について、“闘病”という言葉を使わなかった。

「このことはお互いに話し合っていたわけではありませんが、彼女自身が“闘病”という言葉を使っていませんでした。“病と闘う”ということは、治るということが前提であって、妻は早くから、病気から逃れるのではなく、病気を受け入れようという心境に達していたのだと思います。仮に乳房を取ったとしても、がんが消えるわけではないと私たちは考えていました。もともと、がんは体のどこかから飛んできたのかもしれませんし、早期発見とはいえ、がん化するまでに、かなりの時間が経過しているはずです」

 だが、佳江さんはすぐにこの境地に至ったのではなく、もがき苦しんでいた跡もある。小宮さんの著書「猫女房」(秀和システム)にそのメモの一部がある。
《私が必要であると納得すれば、手術(温存でも、切除でも)することは、かまわないということ、そのほかの治療も同様であること。決して単純にいやだと言うつもりはない》
《5年生存率、10年生存率とは何か?ガン以外の死亡は含んでいるのか?私は10年80%。生存というのは寝たきり、副作用、がんの症状で苦しんでいても生存ということになる》

 生身の佳江さんの叫びにも似た声だ。小宮さんは少し間を置いてから続けた。

「怖かったんでしょうね。あんまりそういうことは言わなかったのですが、がんというもの自体への恐怖ではなく、……なんかその、……終(つい)の棲家(すみか)も見つけていないのに病気になってしまったとか、共働きという形を選ばなかったため、今後の家計がどうなるのかというのもあったろうし、それにやっぱり死への不安も加わったのだと思います。あるノートには『どうしてこんなことになったの。どうしてこんなことになったの』と、ずっとそればかりつづっていた箇所がありました」

 とはいえ、最終的には死への恐怖は本人自身にしかわからないものだ。小宮さんは母の定子さん(享年83)も十二指腸のがんで亡くしている。主治医は全摘手術を推奨したが、小宮さんと佳江さんは高齢患者の外科手術がどれだけ体に負担がかかるのかを知っていたし、術後のQOL(生活の質)も考慮し、バイパス手術を勧めた。患者当人の意思は蚊帳の外になり家族で意見が割れていた時、定子さんは「私が痛いところは、私にしか分からないの。どうするかは私が決める」と言ったという。

「最終的には部分切除に決まりました。病気で苦しんでいるのは本人です。『がんばれ』とかあまり言わない方がいいのかもしれません」

 小宮さんは納得したかのようにこう呟いた。 =つづく

小宮孝泰

小宮孝泰

1956年、神奈川県小田原市生まれ。明治大学卒。80年、渡辺正行、ラサール石井と「コント赤信号」でTVデビュー。91年に佳江さんと結婚。2001年、31歳の佳江さんに乳がん発症。12年に永眠。今年9月に、出会いから別れまでの出来事をつづった「猫女房」(秀和システム)を上梓。

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