がん発症の妻にしてあげた10のこと

<最終回>本を出す「思い出す度、故人は生き続ける」

妻の佳江さん
妻の佳江さん(提供写真)

 佳江さんが2012年10月31日に亡くなってから6年の長い月日が過ぎた。小宮さんはある日、「秀和システム」の編集者と知り合い、「猫女房」というタイトルで追想本を出版することになった。

 芸能人が妻の闘病記を出すことについては、売名行為といった陰口が常に付きまとう。小宮さんも葛藤を隠さない。

「この取材を受けるにあたり、前日から自問していました。書かなければいけないものでもないし、書くことで何かしらの対価はもらうわけであって、そういうことはちょっと心苦しいなあ……というのは、やっぱりないわけではなかった。世間が言う通り、ある意味、売名行為にもなるわけですし、本を出すことへの葛藤はありましたね」

 実際のところ、小宮さんに出版の予定はなかった。もし仮に出版を予定していたなら、亡くなってすぐの方が得られた利益は大きかったはずで、6年もかかったという時点で最初からその意思が薄かったことが分かる。

「妻の亡きあとに、数年かけて彼女のほとんどの文章をパソコンでテキストファイルに打ち出して整理しました。5000枚にのぼる妻が撮った猫の写真もCD―Rに落としました。それは妻の記憶の追体験でもあったし、私の気持ちの整理でもあった。そして本にしたのは、自分へのケジメの意味もありました。こういう世界に生きる者としては、書くことによって表現したいという気持ちもありました。でも、もともとは妻のことを知っているごく親しい人たちに向け、『妻はこんな感じで生きてきたんですよ』と伝えたかったのです」

 佳江さんがノートに残した文章にはこんなものがある。

 2006年4月4日

 歩くとゆれて少し痛い。電車への移動など人にぶつからないよう注意。ショールの下で押さえつつ、あまり眠れず

 まだ、ゆれと重みがかかると傷む。乳首とその周りがしびれて感覚が変

2:30 母がやってくる。大きなお花とカニ寿司と手羽を持って。孝泰くん、張り切って昼からずっと洗濯中。

 2012年5月6日
緩和ケアを希望する理由

①苦痛な症状を楽に

②苦痛な治療なく穏やかに過ごしたい

③以前から緩和ケアを受けるつもり

④精神的な薬痛 不安を軽くして

⑤自宅療養のための準備期間ほしい

⑥自宅療養のためのアドバイスがほしい

⑦家族、親族に迷惑をかけたくないため

 2012年7月2日

 自分の自由を求めて。残りの少しの時間だけでも、強要されるのは嫌だ。人にしてあげることは好きでも。

 本当は泣き叫びたかった時もあったろう。佳江さんは、書くことによって平静さを保とうとしたのと同時に、生きた証しを残そうとしたのかもしれない。

 小宮さんが続ける。

「自分の死後も人々の記憶にとどまりたいという気持ちは、誰の心にも少なからずあると思います。歴史に名を残すような有名人もいますが、たとえ無名の人であっても誰かに覚えていてもらいたいという気持ちは同じでしょう。それが今回は、たまたま僕という媒介があったわけで、『妻はこういう人でした』と他の人に語ってやることができた。一般の人が本を出版するのは難しいかもしれませんが、故人を思い出したり、生前の出来事を語ったりはできます」

 2年前に他界した永六輔さんは、「人は2度死ぬ」と話していた。1度目は生命がその活動を終えた時。2度目は自分を覚えている人がいなくなった時だ。

「死んでも誰かが思い出してくれるたびに、故人はその人の中で生き続けます。だから僕は、できるだけ長生きしようと思います。僕の妻は31歳で乳がんになり、42歳の若さで亡くなりました。ただ、僕ががんを憎んでいるかというと、そうではない。急に交通事故で亡くなったわけではないし、同じつらい別れを経験するのなら、がんでよかったと思っています」

 佳江さんが旅立った後、彼女がかわいがっていた「りゅう」と「ライ」の2匹の猫も後を追うように死んでいった。

 ただし、小宮さんが生き続ける限り、佳江さんと猫たちはずっと生き続けることになる。

 =おわり

小宮孝泰

小宮孝泰

1956年、神奈川県小田原市生まれ。明治大学卒。80年、渡辺正行、ラサール石井と「コント赤信号」でTVデビュー。91年に佳江さんと結婚。2001年、31歳の佳江さんに乳がん発症。12年に永眠。今年9月に、出会いから別れまでの出来事をつづった「猫女房」(秀和システム)を上梓。

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