独白 愉快な“病人”たち

引退まで試合では吐き続け…小谷野栄一さん語るパニック障害

小谷野栄一さん
小谷野栄一さん(C)日刊ゲンダイ

 日本ハムに入団して4年目の2006年に発症しました。当時は一軍と二軍を行ったり来たり……。プロ野球選手は結果が求められ、何かと注目されますから、いろいろなことが重なって爆発したんだと思います。

 今思えば、その年は春先から体調が悪くて、めまいや吐き気が続きました。5~6月ごろにはグラウンドで吐いたり倒れ込むようになり、「お酒のせいかな?」と思って飲むのをやめてみたり、自分なりに試行錯誤していたんです。

 球団側も心配してくれて、胃カメラや脳のMRI検査を受けさせてくれましたが、どこにも異常は見つからない。それなのに、症状はどんどん重くなっていきました。とにかく他人の目が怖くて、襲われるんじゃないかと不安で、7~8月には球団の寮の1人部屋からほとんど出られなくなりました。眠れない日々が続き、野球をやりたいのにできない葛藤で苦しく、体重は10キロ近く落ちてしまいました。

 かかりつけの整形外科医に勧められ、心療内科を受診したところ「パニック障害」と診断されました。最初は受け入れられませんでした。「何を言ってるの? この先生は?」って。

 でも、寮の廊下から目の前にあるグラウンドで他の選手がプレーしている姿を見ていると、むなしくて、情けなくて……。うつ状態に陥っていたのかもしれないですね。球団に「実家へ帰って、少しゆっくりしてきたら?」と提案いただき、実家に帰ったらぐっすり眠れました。他人の目がなくなって落ち着けたのかもしれません。実は小学生の頃から、学校の授業で当てられそうになるとお腹が痛くなるような性格で、注目されるのが得意ではなかったんです。

 両親が何も知らないかのように、いつも通り接してくれたことに救われました。僕は会社員の父、母、姉、妹の5人家族なのですが、両親は奨学金を借りてまで僕を大学に入れて野球をやらせてくれました。

 高校からはずっと寮生活で、姉がランニングシューズを買ってくれたり妹がお小遣いを送ってくれたり、家族みんなで僕を支えてくれました。

 念願のプロになって、契約金で奨学金を一括で返済できたので、「早く結果を出してこれからは家族に恩返しをしたい」「活躍する姿を見せたい」と強く思っていました。そんな気持ちを両親に打ち明けたら、「何も望んでいないのに」と言うんです。ひとりで気負っていたんだと気付かされました。

■病気を「個性」だと受け入れたことで立ち直れた

 立ち直れたのは、病気を「個性」と受け入れたことが大きかったと思います。これは自分で考えた方法なのですが、今は“ゼロ”からのスタート、毎日何かに挑戦し、それを日記に書いて自分を褒め、プレッシャーから解放するように努めたんです。

 たとえば、怖くて電車にさえ乗れていなかったので「今日は駅まで歩けた」「今日は電車に乗って1駅行けた」「今日は電車に乗れなかったけど、2日連続で駅まで行けた」とか“できた”ことを書いていく。そうやって気持ちを前向きにして、少しずつできることを増やしていきました。

 また、その年の秋に行われた「みやざきフェニックス・リーグ」という若手選手の教育リーグに出場できたことも大きかったです。その年、チームは日本シリーズを戦っていたので、フェニックス・リーグの出場選手が足りず、どうしても僕が出なくてはいけなくなってしまったんです。

 打席に立つことさえ恐怖だった僕を、福良さん(淳一・当時二軍監督代行)は「何分かかってもいいから」と見守ってくれて、僕も「今季限りでプロ野球人生は終わりだ。どうせ最後なら、恩返ししよう」と開き直れました。そうしたら、ホームランを何本も打てたり、すごく良い結果が出たんです(笑い)。1カ月間、何とかやりきれたことも自信になりました。

 札幌の自宅に小児がんを患う子供を慰問したことも力になりました。園児たちの前でもめまいを起こし、マネジャーに支えられたほどだったのですが、小さな体で大病と闘う子供を目にしたら、「自分は情けない。この子たちに恥じない行動をしよう。やるしかない」と前向きな気持ちに切り替わったんです。

 幸い、球団が翌年も契約してくれて、一軍で結果が出せるようになり、去年まで現役を続けることができました。多くの方々に助けられ、幸運にも恵まれました。つらい時、「弱ぇからだよ」と心ない言葉を投げてきた人もいましたけど、「必ず勝つ!!」と、かえって力になったと思います。

 再びグラウンドに立ってからも、パニック障害の症状が消えたわけではありません。引退するまで、試合の日はほぼ毎日、心臓がバクバクで、呼吸の仕方もわからなくなって苦しくなり、吐き続けていました。

 シーズン中、選手は練習して、セカンドアップして、ノックを受けてから試合に臨むんですが、僕だけその後に「サードアップしてくるわ~!」と言って、ひとりでトイレに行きオェーッと。試合前の6~7時間は何も口に入れていないので、胃液か、喉が切れて血を吐く……という感じでした。

 でも、大変じゃなかったです。これが試合前の僕のルーティン(笑い)。それで呼吸ができるようになり、その日は大好きな野球ができる。よっしゃ、勝つぞ! みたいな(笑い)。そう思えるように、自分で自分をマインドコントロールしていったんです。

 公表していなくても、同じくパニック障害を抱えている選手はいるかもしれません。これからはサポート役として、野球に加え、僕の病気の経験が何かの役に立てられればと思っています。 

(聞き手=中野裕子)

▽こやの・えいいち 1980年、東京・江東区生まれ。創価大学卒業後、2002年のドラフト5巡目で日本ハムファイターズに入団。打点王(10年)をはじめ、ゴールデングラブ賞を3度獲得するなど攻守で活躍した。15年にオリックス・バファローズへ移籍し、18年に現役引退。今シーズンから東北楽天ゴールデンイーグルスの一軍打撃コーチに就任した。

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