がんと向き合い生きていく

「死ぬ覚悟」を迫ることが患者や家族を苦しめる場合がある

佐々木常雄氏
佐々木常雄氏(C)日刊ゲンダイ

 あるがん遺族の会報で、とても気になった投稿がありました。緩和病棟に入院したお母さまのことについて書かれたものです。

「苦しんで逝かせてしまいました。……(母は)死ぬことを恐いと言い、呼吸ができなくなりそうだったときも死の影に怯えていました。それなのに死ぬ覚悟は折にふれ求められました。……患者は生きたいと思っているのに医療スタッフは死ぬ覚悟を迫る。……『生』の感覚に乖離があるように思えてなりません。……患者の揺れる気持ちをくむのは家族でさえむずかしいことです。でも、癌とわかって治療をするのは何故なのでしょうか。苦しい息の下であっても『生きたい、乗り越えたい』と思っているかも知れません。『助けて』というのは生きる為ではないでしょうか。私は母の最後に『ごめんね』と言いました。『死』とは奪われることでしたが、私はそれで終わっていいようには思えませんでした」

 私はこの投稿を読んだだけで、実際の状況を知りません。どこの病院かも分かりませんし、緩和病棟のスタッフの意見も聞いていません。しかし、ご遺族は数年過ぎた今でも、緩和病棟で「母は死ぬ覚悟を迫られた」と悩んでおられるのです。

 緩和病棟とは、がんの治療をするのではなく心身の苦痛を除くところで、そこで亡くなる方もいらっしゃいます。緩和病棟スタッフは、「死ぬ覚悟が出来ている」ことで、安らかな死、良き死を迎えられると考え、患者をそのように導こうとしたのではないか? しかしこの投稿では、そのことが逆に患者とその家族を苦しめているのです。

■思いが違っていても患者は医療者に逆らえない

 以前、私が看護師の研修会で緩和ケアについて講義した時、あるホスピスに勤める看護師からこんなリポートをもらったことを思い出しました。「ホスピスケアは身体症状を除去するだけではない。『死の受容』ができずにホスピスに来ているからこそ、『死の受容について』アプローチせざるを得ないのだ。自分の人生の総まとめができるように関わることは……良き死が迎えられるために大切な関わりでもある。患者・家族が生きる希望を持ち続けることは自由である。しかし、ただ、生きる希望を支えるだけでいいのだろうか? 傷口に触れずに最期までみるのは簡単だが、それでもなお踏み込むことの意味を考え、必要な介入であればそれによる影響も覚悟し、気持ちの変化に付き合う、支える覚悟を持って我々は関わっている」

 この看護師も、ホスピスで患者に「死の受容」「死の覚悟」を迫っているのかもしれません。

 患者はそれぞれ違う人生を歩み、いろいろな思いで緩和病棟やホスピスに入られます。緩和病棟で最期を迎える時はつらいことが少ないようによくみてもらいたい。そして、すでに衰弱し、思いが違っていても医療者に逆らえないのです。

「生きたい」と思いながら亡くなったとしても、死を受け入れ覚悟して亡くなったとしても、死は同じ死ではないでしょうか。死に「良き死」と「悪しき死」があるのでしょうか。

 医療者が良き死を考えるのは自由ですし、まだ患者が元気な時に議論するなら分かります。しかし、死が迫っている患者に死の覚悟を押し付けるのは言語道断です。たとえ、患者が「死の覚悟」をしたように見えても、「生きたい」という気持ちはなくならないと思うのです。日本の多くの緩和病棟では、このように「死の覚悟」「死の受容」を迫ることはないと信じています。

 700年ほど前、臨死者の看護について、然阿良忠上人は「出来るかぎり、良いことも悪いことも、病人の思いに沿ってさしあげられるようお努めください」と残しています。私はこれが死を前にした患者の看護の基本だと思っています。

■本コラム書籍「がんと向き合い生きていく」(セブン&アイ出版)好評発売中

佐々木常雄

佐々木常雄

東京都立駒込病院名誉院長。専門はがん化学療法・腫瘍内科学。1945年、山形県天童市生まれ。弘前大学医学部卒。青森県立中央病院から国立がんセンター(当時)を経て、75年から都立駒込病院化学療法科に勤務。08年から12年まで同院長。がん専門医として、2万人以上に抗がん剤治療を行い、2000人以上の最期をみとってきた。日本癌治療学会名誉会員、日本胃癌学会特別会員、癌と化学療法編集顧問などを務める。

関連記事