患者が語る 糖尿病と一生付き合う法

「適正な量」を知っていれば時にハメを外しても構わない

「食べ過ぎた」なら、翌日ちょっと控えめにすればいいだけのこと
「食べ過ぎた」なら、翌日ちょっと控えめにすればいいだけのこと

「食べ過ぎた」と感じるなら、「適正な量」を体が知っているということだ。それは大きなアドバンテージになる。以降は常に、その感覚との距離で自分の食生活を評価できるようになる。

「適正な量」を超えたら罪悪感を覚えるようにでもなれば、しめたものだ。罪を犯せば、その罪を償おうとする意識がカウンターとして働く。つまり、翌日にはおのずとカロリーが控えめになるはずだ。

 現に僕は、1型と診断されて食事療法が治療に関係のない身となってもなお、かつて身につけた感覚を生かして、おおむね適正な食事の量を保ち続けているし、それを超えれば一定の罪悪感を覚えてもいる。

 とはいえ、「適正な量」を何が何でも超えないように、365日気を抜くなと言っているのではない。時にはハメを外しても構わない。「食べ過ぎた」日があったなら、翌日はちょっと控えめにすればいいだけの話だ。

 たまにそんな日があったからといって、水物の血糖値はともかく、ヘモグロビンA1cが急激に悪化することなどあり得ないし、その程度の逸脱を許せるようでなければ、これからの長い人生をやり過ごしてもいけまい。

 お酒が好きな人の場合は、少々厄介だ。お酒自体もまたカロリーの塊だからだ。しかも、満腹中枢も良識も麻痺(まひ)させる。僕もお酒は好きなので、その手の不手際は何度も経験している。でもそれは、「酒席ではしかたがない」と割り切るしかない。

 繰り返すが、大事なのは「適正な量」を知っていることなのだ。片目で常に見ながら、そこに戻っていこうという意識を持ち続けること。「適正な量」が分からなければ、どこに戻ればいいのかすら分からない。まとめると、こうなるだろうか。

「杓子(しゃくし)定規にはなるな。ただし、杓子は知っておけ」

 それこそが、顔を見ればうんざりするような腐れ縁の相棒である糖尿病との正しい付き合い方なのだ。(おわり)

平山瑞穂

平山瑞穂

1968年、東京生まれ。立教大学社会学部卒業。2004年「ラス・マンチャス通信」で日本ファンタジーノベル大賞を受賞。糖尿病体験に基づく小説では「シュガーな俺」(06年)がある。

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