50代で突然の膵臓がんステージ4の宣告をどう受け止めるか

佐藤優氏(右)と静岡・弓ケ浜にて
佐藤優氏(右)と静岡・弓ケ浜にて(豊島昭彦氏提供)
佐藤優・著「友情について」の豊島昭彦氏に聞く

 突然、膵臓がんと診断されたら……。作家・佐藤優氏の新刊「友情について」は、高校時代の親友、豊島昭彦氏(59)の半生をまとめたものだ。豊島氏は昨年、膵臓がんが判明し闘病を続けている。豊島氏に話を聞いた。

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 膵臓がんが分かった時、「なぜ自分が」と思いました。自覚症状は全くなく、人間ドックもこれまで毎年受けていた。あと20年は人生があると思い、定年後は好きな小説を書くのに時間を使いたいと準備もしていたのです。

 肝臓の異変を指摘されたのは、昨年5月25日の人間ドック。7月18日の精密検査後、同30日から1週間の検査入院となりました。初日に妻だけが医師に呼ばれ、膵臓がんと告げられました。肝臓やリンパ節に転移している末期がんで、根治を目指す手術や放射線はできず、残された道は2通りの抗がん剤治療です。どちらも効かなければ緩和ケア――。

 詳しい病気の説明を受けたのは退院日でしたが、検査入院中に涙がこみ上げてくることが度々ありました。自分や家族は今後どうなるのだろう。不安で仕方ありませんでした。しかし最終的に行き着いたのは、「今は悩んでも解決できない状態。悩むのはやめて残された時間をどう生きるか考えよう」ということです。

 私は勤めていた銀行の倒産や外資系ファンドによる買収などを体験しています。自分で改善できる状態ではなく、「波」にのみ込まれた中で何ができるかを考えるしかないことが何度もありました。今回は「がん」という命に関わる波だったわけですが、自分ができることを考えていれば、真っ暗な中にも光の道が見えてくるだろう。それを進んでいくことで何か得られることがあるんじゃないか。そう思ったら、気が楽になりました。

 国立がん研究センター中央病院で、週1回の抗がん剤治療が始まったのは8月21日。がん治療と仕事の両立に慣れてきた10月15日の深夜、佐藤君(佐藤優氏)にメールを送りました。

 高校時代の親友である佐藤君とは、がんが分かる少し前に40年ぶりの再会を果たし、それ以降、メールのやりとりをしていました。

■治療法は抗がん剤2通りのみ。効かなければ緩和ケア

 何かアクションを起こさないといけない。そう考えた中で、佐藤君の顔が一番に浮かんできたのです。メールではがんに触れ、書いていた小説も添付しました。すると10分もしないうちに佐藤君から電話があり、「とにかく会おう」と言われたのです。

 佐藤君からは「豊島、何がしたいんだ」。この世に生きた証しを残したいと返すと、即答で「本を作ろう。豊島の体験を後輩に伝えよう」と。私は普通のサラリーマンで、誰も私に興味を持たないだろう。しかし佐藤君は「豊島が窮地に陥った時どう乗り越えてきたかを語ることは、後々、人のために生きてくるんだよ」と言ったのです。

 それから私が半生を振り返った手記をまとめ、佐藤君がそれについてインタビューするという共同作業が始まりました。佐藤君が原稿を書き上げたのは今年2月8日。私が強力な抗がん剤治療のため国立がん研究センターに入院した翌日です。

 先日、「治療法がないので緩和ケアへ」と宣告されました。2通りの抗がん剤を試しましたが、いずれも転移した肝臓のがんが拡大し、継続できなかったのです。

 私としてはファイティングスピリットがあり、緩和ケアに移るのは少し先延ばしにしたい。だからもう一度、最初に受けた抗がん剤をやらせてくれないか。そう医師に伝え、4月4日からスタートしていますが、前回と同様、「これ以上できませんね」と遅かれ早かれ言われるでしょう。

 しかし、あがいても仕方がない。できることをやっていこう。その気持ちは変わりません。

▽豊島昭彦(とよしま・あきひこ) 1959年8月生まれ。82年日本債券信用銀行に入行。2012年ゆうちょ銀行に転職。日債銀は98年に経営破綻し、01年にあおぞら銀行に行名変更しているが、豊島氏はゆうちょ銀行転職までの間に、倒産、外資系ファンドによる買収を経験。18年日本公認会計士協会に再転職の直後、膵臓がんが発覚。作家としても活動しており、著書に「夢のまた夢 小説 豊国廟考」など。

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