がんと向き合い生きていく

日本は米国の「自己決定権が最も重要」とされる医療とは違う

佐々木常雄氏
佐々木常雄氏(C)日刊ゲンダイ

 何よりも大切なもの、「いのち」――。それは当たり前でしょう? と言われそうです。

 たしかにそうなのですが、最近は医療において「自分の意思」や「自己決定」が最も大切なもののように考えられている気がするのです。

 アメリカの医療は自由診療制、患者と医師との自由な契約によって医療が行われます。

 自立、銃を持てる国、「自己決定権が医療において最も重要」とされるのがアメリカの医療です。そして、患者に決定の自己責任を負わせるのです。

 一方、日本の医療は社会保障の一環で、国民に対して一律に行われます。アメリカの「契約に基づく医療」とは違います。それなのに、いまや日本でも、本人の意思や自己決定権が一番大切だと考えられている節があるように感じることがあります。

 本人の意思だから……。自分のことは自分で決める……。自分で決めたことだから……。患者が自分で選んだのだから患者に責任を負わせる……。たしかにそうでもあります。しかし、本来は、私は違うようにも思うのです。

 極端な話かもしれませんが、もし自殺するために崖から落ちようとしている人を見つけたら、有無を言わさずまず助けます。本人の意思に関係なしに助けます。本人の遺書があっても、まず助けます。それはわれわれ人間の本能のようなものだと思います。ですから、本人の意思や自己決定権よりも大切なもの、それは「いのち」なのだと思うのです。

■「いのちを最大限尊重する」ことが大切

 たとえば、輸血を拒否する宗教があります。以前、子宮に腫瘍のある患者さんが手術が必要となったのですが、信仰上の理由で輸血はできないとのことで、輸血しない手術をしてくれる病院を探しているという話を聞いたことがありました。

 手術で、交通事故で、大出血しても、何があっても輸血を受けない。この場合、本人の意思だからといって本当に輸血をしないと決めてしまってよいのでしょうか? 病院に大出血した人が運ばれて、輸血も用意してあって、血圧が下がって瀕死の状態となって、輸血以外に救命手段がないとなったら……。宗教上の理由があるからといって、輸血をしないで死ぬのを黙って見ていられるのでしょうか? 輸血さえすれば助かるいのち、なのにです。

 日本外科学会など医学5学会では、患者が「免責証明書」を用意して医師の責任が問われないようにすることが書かれています。しかし、できる限り輸血をしないとしても、輸血以外に救命手段がない事態のときは、患者の意向にかかわらず輸血しなければならない場合があるのではないでしょうか? 免責証明書があるから……とはいっても、何よりも大切なのはいのちだと思うのです。

 数年前の新聞記事に、「緊急入院した病院で、医師は手術と輸血が必要だと判断。患者自身の意識がほとんどなく、息子に同意を求めたが、本人の信仰を理由に輸血は拒否された。手術は『輸血不要』という合意のもとで行われたが、完遂せず、女性は亡くなった」とありました。

 たしかに、憲法による「信教の自由」も分かります。それでも私は「いのちを最大限尊重する」、それが医療だと思うのです。本人の意思、自己決定権よりも、いのちの方が最も大切だと思うのです。

 先日、医師が患者に人工透析をやめる選択肢を示し、中止を選んだ女性が死亡した問題が発覚しました。透析さえすれば長く生きられるいのちなのに、「自己決定権」「本人の意思確認書がある」から責任はないと医療者が納得しているとすれば、それは違うと思います。

「私は、たとえいかなる脅迫があろうと、生命の始まりから人命を最大限に尊重し続ける」

 終戦時、世界医師会(現在では112カ国の医師会が加盟)は、ジュネーブ宣言でそう誓ったのです。

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佐々木常雄

佐々木常雄

東京都立駒込病院名誉院長。専門はがん化学療法・腫瘍内科学。1945年、山形県天童市生まれ。弘前大学医学部卒。青森県立中央病院から国立がんセンター(当時)を経て、75年から都立駒込病院化学療法科に勤務。08年から12年まで同院長。がん専門医として、2万人以上に抗がん剤治療を行い、2000人以上の最期をみとってきた。日本癌治療学会名誉会員、日本胃癌学会特別会員、癌と化学療法編集顧問などを務める。

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