後悔しない認知症

体験した「エピソード記憶」の喪失を食い止める方法はある

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写真はイメージ(C)日刊ゲンダイ

 たとえば、「ハワイに行ったのを覚えているよね」という子どもの問いかけに「忘れた」と無表情の親が答え、「はじめての海外旅行のことも覚えていないのか……」と子どもは落胆する。似たような経験を持つ子ども世代は多いはずだ。このように親子が共有していた鮮烈な記憶でさえ、認知症の親の脳からは消えてなくなってしまうことがある。認知症にかぎらず、高齢の親には多かれ少なかれ認められる症状なのだが、こうした親の記憶の消失は、子どもにとってつらい。

 前回、新しく体験したことを覚えられない「記銘力障害」について述べたが、このように古い記憶がなくなってしまうのが「想起障害」である。中高年以上になって、上書きされる情報が多くなり、過去に覚えたことを思い出しにくくなることは当たり前のことではあるが、加齢現象の場合、その主たる原因は脳の海馬の機能低下である。

 心理学では、人間の記憶を2つに分けている。ひとつが「エピソード記憶」で、もうひとつが「意味記憶」である。「エピソード記憶」とは簡単に言えば、自分が体験したことの記憶である。たとえば「北海道に行ったことがある」「○○君とは中学の同級生」といった努力を要さず自然に定着した記憶であり、「意味記憶」は文字通り、数学の公式とか歴史的事件の年号、あるいは外国語など学習によって定着させた記憶である。

■「なるほど」「それで?」と相づちを打つコミュニケーション

 一般的には「エピソード記憶」のほうが忘れにくいとされている。ハワイ旅行を例にとれば、通関のために暗記した英語などの「意味記憶」は意識的に復習しなければ短時間で消えてしまうが、ハワイに旅行したという「エピソード記憶」は努力せずに長期間保たれる。

 同様に受験のためだけに記憶した知識も試験が終われば瞬く間に消えてしまうが、どこの学校を受験したかをすぐに忘れることはない。

 一般的に加齢とともに誰でも記憶は想起しにくくなるのだが、認知症になると、この「エピソード記憶」の想起力の低下が目立つようになる。こうした症状を改善させる可能性は低いものの、症状の進行を遅らせることはできる。

 コミュニケーションの量を増やし、子ども側から意識的に問いかけを行って、親の想起の機会を増やすことだ。同じ話をする親には根気強く耳を傾け、その話に関連したエピソードを聞き出すようにしてみる。「なるほど」「それで?」「初耳だな」などと相づちを打ちながら、これまで出力したことのなかった情報を引き出してあげてみるのである。「親の脳を悩ませる」ことが認知症の進行を抑えるのだ。

 昔話をしながら、あるいは古いアルバムを一緒に眺めながら、親子のコミュニケーションを深め、親の記憶の想起を促してみるのもいい。失われた記憶のすべてが蘇る可能性はないが、わずかであっても親が忘れていた記憶を想起できれば、親自身の機嫌もよくなるはずだ。

 フランスの文豪プルーストの小説「失われた時を求めて」は、紅茶に浸したマドレーヌの味が主人公の幼児期の記憶を劇的に蘇らせるというストーリーで有名だ。それほど劇的な展開は望めないにしても、コミュニケーションの中で何かがきっかけになれば、親にとっても子どもにとっても有意義な記憶の想起があるかもしれない。

和田秀樹

和田秀樹

1960年大阪生まれ。精神科医。国際医療福祉大学心理学科教授。医師、評論家としてのテレビ出演、著作も多い。最新刊「先生! 親がボケたみたいなんですけど…… 」(祥伝社)が大きな話題となっている。

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