「死ぬとはどういうことなのか」「どのような死に方がベストなのだろうか」――。
死ぬことは怖い。しかし、死から逃れることはできない。
長年、外科の看護師を務め、高野山真言宗の僧侶としても活動している玉置妙憂さんは、次のような「死生観」を抱く。
「人間の最期とはどうあるべきなのでしょうか。個人の判断基準を自分が持つ価値観(生き方)に照らし合わせ、迷うことなく明確にしておくことが大事です。ただし、死について考えるときは、肩の力を抜いて、ゆったりと思考することでしょうね」
多忙な病院勤務のかたわら、8年前に出家したとき、玉置さんは勤務先に退職願を出した。坊主姿での看護師業務は、患者さんたちに違和感を与えると思ったからである。でも、病院は退職を引き留め、在宅ケアを中心にした看護師活動を依頼した。
以来、春夏秋冬、化粧なし、作務衣姿で通す玉置さん。
病院で何百人もみとり、終末がん患者の在宅ケア、あるいは僧侶として、これまで数多くの他人の死と直面してきた。実にさまざまな死に方を見てきた。
臨終間もない人に無理やり水を飲ませ、あるいは過剰な点滴をするなど、まったく不必要なことも行われている。
そうした死の現場で、常に人の死について考えてきた玉置さんは、近年、「死」が日常から遠く離れていっているような気がした。
医療機関に「老」「病」「死」を丸投げするようになり、死の存在自体をリアルに感じられない家族が増えているからである。
玉置さんは、7年前に最愛の夫を自宅でみとったことが自らの「死生観」を確固たるものにした。
再発がんの治療に背を向けた主人は、入院や副作用に苦しむ抗がん剤の服用も拒否。自宅で寝起きしながらカメラマンとしての仕事を貫き通し、家族にみとられながら62歳の人生の幕を閉じた。
「自宅で亡くなる人は、およそ10%といわれています。主人もそのひとりでした。本人の意思で、死ぬまで好きな酒を飲みながら仕事を選択したのです。ちょうど枯れ木が静かに倒れていくようにして身を横たえ、目を閉じました。自然体のままの死に方です。最高に近い死に方ではなかったでしょうか。もちろん終末治療を否定するわけではありません。でも最期をどう迎えるかは、何よりも本人の幸せを考えてあげて、まず本人の意思を尊重してあげることでしょうか」
看護師僧侶「死にゆく人の心構えと接し方」