正社員で働く発達障害の人々

子供のころから「普通の人との違い」を感じていた

一色宏治さん
一色宏治さん(提供写真)

 1978(昭和53)年に生まれた一色宏治さん(41)は、子供のころから、家族や周囲によく「変わっている」と言われたという。

 幼稚園に入ると、自分は一向に人の顔と名前を覚えられないのに、他の子供は覚えているらしいことに気付いた。それが一色さんが、初めて感じた「普通の人との違い」だった。また、靴や靴下をはかないまま家に帰ってしまったり、着替えが苦手で、着替えるときには女の子たちが手伝ってくれていたという。

「他にも、自分の世界に閉じこもって、クラスの子供たちが他の部屋に移動しているのに、自分は気付かず、気付いたら教室にひとりきり、なんてことも、よくありましたね」と振り返る。

 いま一色さんは自分をADHD(注意欠陥多動性障害)と、ASD(自閉症スペクトラム)の両方の特性を持っていると考えているが、子供のころは、ASDのほうが強かったのではないか、と分析する。

「もっとも、勉強だけはできたので、小学校に入ってもなんとか授業にはついていけました。ただ人の顔と名前は一致しないまま。小学校低学年のとき、クラス名簿を出席番号順に丸暗記してなんとか乗り切りましたが、相変わらず顔とは一致しない。それを、ごまかしていましたね」と話す。

 中学に入ると、夜中に勉強しながら深夜ラジオを聞くようになり、授業中はよく眠っていた。理系科目ができたので、旧帝大の理系学部に進学する。大学が家から遠かったので一人暮らしを始めると、生活は壊滅的になった。

「朝起きられないし、時間管理ができないので、授業に出ても遅刻する。夜中に大音量でラジカセをかけて、部屋の前に苦情の張り紙があって、初めて迷惑をかけていたことに気付く。勉強は遅れがちで1年留年しました」

 時は就職氷河期。目先の就職活動を敬遠して、大学院に進学する。

 難しい課題は「過集中」という、ハイになったような状態でなんとかこなしたが、発表が終わるとその反動でダウンしてしまう。疲れているのに興奮状態で眠ることができず、ぐるぐる回る頭の中で、「こんなことでは、働くのは無理だろうなあ……」とぼんやりと思った。

 大学の教授に相談したところ、大学病院の受診を勧められた。

 結局、そのころ増え始めていた心療内科を受診したが、睡眠薬を処方されただけで、はっきりとした病名は与えられずに終わった。

「計画性がないので、修士論文もなかなか仕上げられない。怒りだした助教授(当時)に『もう君の論文を見ない』と言われると、それを真に受けて本当に見せなくなったんです。助教授は単にハッパをかけるためにそう言っただけかもしれないのに、物事を言葉通り受け取るのって、これもASDの特性なんですよね」と、一色さんは話す。

 結局、同級生に助けてもらって、なんとか修士論文を提出。IT系の会社に入社することになった。=つづく

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