がんと向き合い生きていく

80歳の母親は助かる可能性があった胃がんの手術を受けず…

佐々木常雄氏
佐々木常雄氏(C)日刊ゲンダイ

 病院事務のAさん(50歳・女性)には弟がいますが、結婚して遠方に住んでおり、父親の死後、Aさんは母親と2人で暮らしていました。ある日の午後、Aさんが「先生、亡くなった母のことなのですけど、聞いていただけますか?」と尋ねてこられました。私がうなずくと、Aさんはこんな話をしてくれました。

 ◇  ◇  ◇ 

 ある夜、私が家に帰ったら母が倒れていたのです。救急車で病院に運びましたが、血を吐いていて、胃がんからの出血でした。いろいろ処置していただいたのですが、亡くなりました。

 4カ月前に胃がんが見つかったとき、母は担当医から「進行した胃がんですが今なら手術で助かる可能性があります。手術するかどうかはあなたの命ですから、あなたが決めてください」と言われました。それを受け、母は私にこう言いました。

「私は十分に生きてきた。夫はもう亡くなって10年になる。私は肺がんの手術もしたし、このまま死んでいいから手術はしたくない。先生は『あなたの命だから、あなたが決めてください』と言った。私は手術しない。今、何にも痛くもかゆくもない。私は80歳よ。長く生きても、あなたに迷惑をかけるだけだから」

 母と私は大ゲンカになりました。私は手術して欲しかったのです。生きていて欲しかったのです。それでも、母は頑として「手術はしない」と言い張りました。

 担当医は「今なら助かる可能性がある」と言っておきながら、どうしてもっと強く、強く手術を勧めてくれなかったのでしょうか? あの「今なら助かる」の言葉が私には忘れられません。「あなたの命だからあなたが決めてください」ではなくて、「手術しましょう。今なら助かります。高齢でリスクはありますが、出来るだけ頑張ります」と、どうしてそう言って下さらなかったのでしょうか?

 母が自分で決めたことで、今さらこうなってしまっても仕方ありません。でも、ケンカになったあの時、母は「私の命なんだ。担当医もあなたの命と言った。だから私が決める」と言っていました。

 私は「母の命は母ひとりの命ではない。一緒に暮らしてきた家族の命でもあるし、私の命でもある」と言ったのです。でもその後、数日は口を利かなくなりました。

 担当医は、手術のメリットもデメリットもすべて話してくれたと思います。でも、患者にはすべてが分かるはずはありません。そのことで文句を言っているのではないのです。

 患者の権利としての自己決定権と言われますが、「母の命は母だけのもの」というような考え方は間違っていると思うのです。何回も同じようなことを言って申し訳ありませんが、医師は助かる可能性がある時でも、「あなたの命だからあなたが決めてください」と言うものなのでしょうか? 母の命は母のものだと先生もそうお思いになりますか?

■何も出来なくても生きていて欲しかった

 私は母ともっともっとケンカをして、すぐに手術を受けさせればよかったと後悔しています。痛いとか、何かあれば無理やり病院に連れていって、手術を受けさせることも出来たかもしれません。

 病院に連れていかないで様子をみてしまっていた私が悪いのです。葬式に来た弟に、言い訳ばかり話す自分が嫌になりました。

 今さら他人のせいにするな。私のこの悲しさ、寂しさを他人のせいにするな。死んだ者は帰ってこないじゃないか……そうも考えます。でも、仕事が終わって、家に帰っても、何も言わなくともほほ笑んでいてくれた母はいないのです。

 母は、「生きていても意味がない。何も役に立たない。いつ死んでもいい」と言っていました。でも、何も出来なくても生きていて欲しかったのです。いてくれるだけで良かったのです。

 家には遺影と花しかないのです。母はいないのです。

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佐々木常雄

佐々木常雄

東京都立駒込病院名誉院長。専門はがん化学療法・腫瘍内科学。1945年、山形県天童市生まれ。弘前大学医学部卒。青森県立中央病院から国立がんセンター(当時)を経て、75年から都立駒込病院化学療法科に勤務。08年から12年まで同院長。がん専門医として、2万人以上に抗がん剤治療を行い、2000人以上の最期をみとってきた。日本癌治療学会名誉会員、日本胃癌学会特別会員、癌と化学療法編集顧問などを務める。

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