後悔しない認知症

認知症在宅介護 子供の肉体的精神的負担を喜ぶ親はいない

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写真はイメージ(提供写真)

「住み慣れた家で最期まで親の面倒を見たい」

 子どもの多くはそう考えるかもしれない。だが、認知症を発症し徐々にその症状が進行すると、在宅介護を続ける子どもの思いも揺らぎはじめる。物忘れがひどくなる。料理や給湯などで危険性が増す。ひとりで身の回りのことができなくなる。円滑なコミュニケーションが難しくなるといったさまざまな不都合が生じ、その結果、子どもの心身への負担が増す。やがて、親に対する向き合い方も変わる。親の言動にまともに対応しなくなったり、無視しはじめたり、場合によっては感情を抑えきれずに暴言を吐いたりしてしまう。

 いかに認知症が進んでいる親であっても、そうした子どもの言動を喜ぶはずがない。暴力を振るうのは論外だが、子どもが親によかれと思ってはじめた在宅介護が、お互いの不幸を招くことになる。そんな親子関係は悲しい。そのまま親が人生のフィナーレを迎えれば、子どもも悔いを残すことになる。

 もちろん、在宅介護を続け、幸せな親子関係のフィナーレを迎えるケースもあるだろう。その可能性を否定するつもりはないが、そのためには親の症状、子どもの職業、家族の協力や経済的事情、地域の介護サービス事情など多くの要素が必要となる。

 先日、映画「長いお別れ」を見た。山崎努さん演じる元校長の認知症発症から死までの7年間、そして、ともに生きるその妻と娘たちの日々を描いた作品だ。ゆっくりと進行していく認知症の現実、その現実と向き合う家族の姿などをリアルに描いている。

 確かに上質の作品であることは間違いない。ご存じの方もおられるかもしれないが、私自身、若いころから映画好きで、これまで4作品もの、一般公開された映画の監督を経験している。そのうちの一作「『わたし』の人生 我が命のタンゴ」は施設に入れることで初めて認知症の親の良さを見つけた話だ。

 映画はひとつの表現様式にすぎず、必ずしも現実をただ忠実に描くものではない。ただ、認知症を取り巻く環境を知る医者として「長いお別れ」に「在宅介護の美談部分にフォーカスしすぎているのでは?」という印象を持った。つまり、この作品がフォーカスする家族愛の世界とは異なり、現実の認知症高齢者の在宅介護は当事者にとってはもっと過酷だということ。そのことを忘れてはならない。

「認知症の母親の見たことのない笑顔に、娘さんが感動していました」

 老人介護施設で管理栄養士として働く30歳の知人女性が、あるエピソードを話してくれた。

 ある日、施設で火災や地震に備えた避難訓練が行われたそうだ。スタッフが戸外に入居者を誘導すると、認知症の高齢者が楽しそうに、そして競い合うように歩きだしたのだという。「なぜ楽しかったの?」とたまたま見舞いに来ていた娘が入居者である母親に尋ねると、こう答えたという。

「運動会でカケッコしたの何年ぶりかしら」

 認知症ゆえの事実誤認とはいえ、在宅介護時代には見せたことのない笑顔だったという。

 私は「自宅介護=親が幸福」「介護施設=親が可哀想」というステレオタイプの発想には疑問の念を禁じ得ない。認知症に限ったことではないが、フィナーレまでお互いにカンファタブル(快適)な関係を維持していくために、在宅介護以外の選択をもっとポジティブに考えるべきだ。子どもの肉体的、心理的負担を喜ぶ親はいないのだから。

和田秀樹

和田秀樹

1960年大阪生まれ。精神科医。国際医療福祉大学心理学科教授。医師、評論家としてのテレビ出演、著作も多い。最新刊「先生! 親がボケたみたいなんですけど…… 」(祥伝社)が大きな話題となっている。

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