後悔しない認知症

「合いの手」を上手に入れて言葉のラリーを続けること

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写真はイメージ(C)日刊ゲンダイ

「その入居者の女性は、一日も欠かさず私に冷たい缶ジュースをくれるんです」

 介護施設で働く女性Kさんが言う。入居者のほとんどが認知症と診断された高齢者だ。「昨日もいただきましたよ」と固辞するのだが、本人は覚えていない。毎日、施設に備え付けの自販機で買って渡すのだという。真冬でも同じ冷たい缶ジュースだ。だからKさんの机の周りには、同じ缶ジュースが山積みになっている。ときどき訪れるその入居者の家族に、事情を話して引き取ってもらうという。

 この高齢者は自分がいる場所、ジュースを渡しているKさんが誰であるか、季節や日時も正しく認識してはいないという。記憶が抜け落ちてしまう記憶障害と、季節、日時、人の認識ができなくなる見当識障害は認知症の主たる症状だ。それでも、この女性はKさんの名前こそすぐに忘れてしまうが、世話になっていることは覚えていて、謝意あるいは親愛の気持ちを伝えようとしていることは間違いない。

■相手をやり込めてはいけない

 子どもは親が認知症であっても、こうした残存能力があることを忘れてはならない。親の認知症が進行して自分たちの心身のストレスが増すと、子どもは親に対してまともに向き合わなくなることが少なくない。突き放したり、無視したりする行為は認知症の症状を悪化させるだけだ。

 子どもが覚えておきたいのは相手を機嫌よくさせる「合いの手」である。

 たとえば、何度同じことを言われても「さっき聞いた」ではなく「へえ、そうなんだね」。少し前と同じ質問をされても「さっき言ったでしょ」ではなく「忘れちゃったの?」「〇〇だったよね」といった具合に優しく応ずる。こうした「合いの手」は、正しい理解を相手に強引に求めるためのものではなく、相手が機嫌よく言葉をやりとりするためのものだ。

 テニスにたとえるなら、強いショットを繰り出すのではなく、相手が返しやすいやさしいショットを心がけ、できるかぎり長い時間、言葉の交換を続けるのである。こうした言葉の交換を続ければ、認知症の親も脳を動かすことになり、少なからず症状の進行を抑えることにもつながる。そうしたコミュニケーションのなかで、認知症の親の口から子どもを愉快にさせる言葉が出てくることもある。思わず笑いがこみあげて、その結果、親の機嫌もまたよくなる。

 作家・エッセイストの阿川佐和子さんは、「ことことこーこ」(KADOKAWA)という作品で認知症の母と娘の日々を描いたが、その阿川さんが月刊誌(文芸春秋7月号)で認知症である自身の母親とのやりとりを明るくつづっている。

「『何でも忘れちゃうね、母ちゃん』と笑ったら、ムッとして、『覚えてることだってあるもん』『何を覚えてるの?』『うーん、何を覚えてるか忘れた』だって……」とほほ笑ましいエピソードを紹介した上で、「こんな機転のきいた返しができるなら、ずいぶん脳みそが動いてるんじゃないかしら〈中略〉いまの母も明るく可愛くぼけて、それなりに幸せそうです。私たちも、母との暮らしを少しでも楽しもうと考えています」と結んでいる。認知症の親との理想的な関係といっていい。

「私の名前を忘れてもいいんですよ。私は○○さんの名前を忘れませんから、安心してください」

 冒頭のKさんは認知症の入居者との会話でしばしばそう語りかけるという。認知症の親への「合いの手」は、親を機嫌よくする「愛の手」なのだ。

和田秀樹

和田秀樹

1960年大阪生まれ。精神科医。国際医療福祉大学心理学科教授。医師、評論家としてのテレビ出演、著作も多い。最新刊「先生! 親がボケたみたいなんですけど…… 」(祥伝社)が大きな話題となっている。

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