がんと向き合い生きていく

終末期の父親が震える手で3人の子供たちに書き残した言葉

佐々木常雄氏
佐々木常雄氏(C)日刊ゲンダイ

 Hさん(男性=当時51歳)が亡くなられて今年で三十三回忌を迎え、奥さんと集まった8人のお孫さんで一緒に撮った写真が、担当医だった私の元に送られてきました。

 お孫さんたちの背丈は奥さんと同じかもっと大きく、高校生か大学生かそれ以上か、皆さんとても頼もしく見えました。奥さんをはじめ、皆さんニコニコされています。 Hさんが生きておられた頃、8人はこの世に存在していません。写真を見て私は「Hさんの心の思い、魂が、33年たって孫たちに継承されている」と思いました。

 Hさんはバリバリ仕事ができる方で、職場のみんなから信頼され、尊敬されていました。ある年、胃の調子が悪くなって7月末に某病院で検査を受け、かねて予定していた黒四ダムへの家族旅行の後に入院しました。

 8月20日に受けた開腹手術では、胃がんは手の施しようもなく広がっていました。当時は本人に病名は告知されていません。その後、がんは肺に進んで呼吸が苦しくなり、9月末には胸水がたまった状態になり「胸膜炎」という診断で私が勤めていた病院に転院されました。胃がんなのに「お腹が痛い」のではなく、多数の肺転移があってがん性胸膜炎で呼吸困難に苦しまれたのです。

 病気は次第に悪化していきましたが、悪い日ばかりではありません。奥さんは毎日来院され、受験を控えた3人のお子さんもよく見舞いに来られました。

 Hさんの上司だったMさんは、ご自分の詩を書いた絵はがきを、毎日毎日病院に送ってくれました。Mさんは若い頃に故郷で小学校の助教諭をされていたそうです。後になって、この絵はがきをまとめられて「詩集あかね空」(柊益美/山脈出版の会)を出版され、その詩集は今も私の手元にあります。

 10月17日の絵はがきです。

 ◇  ◇  ◇ 

あかね空

いけないな
母さんと あんなに
約束してたのに
あそびすぎ
もう日がくれる
こんなにおそい
どこかの街の どこかの坊や
急いで 走って 帰っていく
あかねの空が 町をそめ坊やをそめて 暮れていく

 ◇  ◇  ◇ 

 Mさんは子供が出てくる詩をたくさん作って毎日送ってくれたのです。Hさんはどれだけ心が安らぎ、励まされたことでしょう。

■がんが進行しても希望を失わなかった

 われわれはがんとも抗がん剤とも告げずに治療をしました。それでも、Hさんは私を信頼してくださり、頑張りました。「先生、私が元気になったら、もしできたら一緒に病院をやりたいね。一緒に病院を!」

 がんが進行していても希望を失っていませんでした。奥さんは毎日毎日、付きっきりでした。正月はなんとか自宅で過ごすことができました。しかし、すぐに息が苦しくて横になることができず座位のままで過ごすようになり、とうとう気管切開をすることになりました。言葉が出しにくくなることから、Hさんは3人のお子さんあてに、震える手でこんな言葉を書き記しました。

「父はこんなに頑張った、あなたたちの人生を頑張れ!」

 つらいつらい日々をすごし、3月3日に亡くなりました。Hさんが亡くなってから、奥さんはどれほど苦労され、頑張ってこられたか。大変であったと思います。3人のお子さんを立派に育てられ、そして頼もしい8人のお孫さんがここにおられます。心は、魂は引き継がれる――。本当にそう思いました。

 8人の孫が集まってくれた三十三回忌、Hさんはみんなに会うことができていっぱい喜んでいらっしゃる。そう思いました。

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佐々木常雄

佐々木常雄

東京都立駒込病院名誉院長。専門はがん化学療法・腫瘍内科学。1945年、山形県天童市生まれ。弘前大学医学部卒。青森県立中央病院から国立がんセンター(当時)を経て、75年から都立駒込病院化学療法科に勤務。08年から12年まで同院長。がん専門医として、2万人以上に抗がん剤治療を行い、2000人以上の最期をみとってきた。日本癌治療学会名誉会員、日本胃癌学会特別会員、癌と化学療法編集顧問などを務める。

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