独白 愉快な“病人”たち

一時は絶望のドン底…ノブナガ岩永達彦さん語る機能性難聴

岩永達彦さん
岩永達彦さん(C)日刊ゲンダイ

「なんかしゃべってくれ!」

 ルームシェアしている後輩にそう言ったんです。しゃべっている表情と気配はあるのに、声はまったく聞こえませんでした。

 いやぁ、そのときはもう絶望感しかありませんでしたね。

 それは、今年3月でした。ある朝いつものように起きたら、目覚めるなり気分が悪かったんです。気づけば笛のような高い音の耳鳴りが頭の中に響いていました。起き上がると急に立ちくらみと吐き気に襲われ、トイレに駆け込んで吐いたとき、吐く音がしてないことに気づき、初めて耳が聞こえないことが分かったんです。

 よく考えれば、布団から出るときの音やトイレまでの足音など、もっと前に気づいてもよかったんでしょうけど、耳鳴りのせいで気にならなくて……。で、パニック状態で後輩の部屋に行って「なんかしゃべってくれ」となったわけです。

 その後は筆談ですよ。でも初めは冗談だと思われてしまい、悔しくて泣きましたからね(笑い)。泣いたボクを見て、やっと後輩も焦り出した感じでした。

「病院行きますか?」という文字にうなずいて病院まで付き添ってもらったんですけど、町の小さな医院ではあまり例がなかったのか、先生たちも慌てている様子でした。そして後輩が医者に懇々と叱られていました。後から聞いた話では、「なんでこんなになるまで放っておいたのか」ということだったようです。

「今日も仕事があるのでなんとかしてほしい」とボクの意向を伝えると、「仕事どころじゃありません」とまた後輩が怒られていました。そして次に医者が紙にこう書いてボクに見せてきたんです。

「天下分け目」

 いや、何? その前に病名教えてって感じでしたけど、その医者的には障害者になるかならないかの天下分け目を意味していたようです。

■「聞こえない」病気なのに母親が電話してきた

 すぐに大きな病院の耳鼻科を紹介されて、聴力検査や脳波などを測り、器質的には正常であることがわかりました。つまり、原因は精神的ストレスです。病名は「機能性難聴」で、ほぼ両耳は聞こえておらず、日常生活も難しい状態との診断でした。精神科でも診察があり、そこでは適応障害とか、うつ寸前とか、いろいろあって「とにかくノンストレスな生活をするように」と言われました。仕事はドクターストップになり、処方された薬を1週間ほど飲みました。

 ノンストレスで何も考えるな……と言われても、両耳が聞こえない状況でそれは無理ってものです。

 初めの数日はまったく治る気がしなくて絶望のどん底でした。お笑いどころじゃなく、生活が厳しいわけで、マイナスなことばかり考えていました。

 暇つぶしはネットの映画観賞。初めて字幕版の良さを実感しました。何日かして、ずっと寝ているのもしんどいので、外に出たり、人に会うこともなるべくしました。周りがお笑い芸人ばかりなので、わざと小さい声でしゃべってきて「このボリュームいける?」なんてイジられたりもしました。でも、それが逆にうれしかったですね。一番イジられた気がしたのは大阪の母親でした。知らせを聞いて、すぐに電話してきたんですよ。「聞こえない」って病気なのに、電話してきます?(笑い)

 耳鳴りがやんだのは3日目ぐらいで、それから右耳が徐々に聞こえるようになってきました。約1カ月半の静養を経て、リハビリ感覚で事務所のライブに出たのが4月末。

 相方の声も聞こえるし、もう大丈夫かなと思ったんですけど、お客さんの笑い声が聞こえにくくて、以前との違いを改めて感じました。

 左耳は聞こえないまま、ここ何カ月も変化はありません。相方は「それ以上は治らんやろ」とちゃかすし、医者もはっきりしたことは言いません。でもこれに慣れてきたので日常生活には困りませんし、ここまで回復できたことが喜びです。

 こんな病気になってつくづく考えたのは、やっぱり健康に生きることが一番だということ。日本人は無理して働くクセがあるじゃないですか。それはもちろん素晴らしいことなんですけど「普通の生活ができなくなるまで無理するのはバカみたいだな」と思ったんです。今は「すっごくつらいときは逃げたろ」と思ってますし、もし誰かが同じ病気になったら「病気に立ち向かおう」より「逃げていいよ」って言います。

 性格的には相変わらずの心配性です。たとえば、耳のことをイジられたとき、「“耳イジってもうてゴメンな”と思わせないように返さな」と思ってしまうんです。「“ほんまに怒った?”と思われへんような顔せな」とか。そんな細かい自分、めちゃめちゃ嫌なんですけど、急には変われなくて……。けど、それも全部ひっくるめて「ま、いいか」と思うようにしています。

(聞き手=松永詠美子)

▽いわなが・たつひこ 1993年、大阪府生まれ。2016年に「ノブナガ」を結成しフリーで活動。2017年からは太田プロダクションに所属している。

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