後悔しない認知症

「こんなになってしまって…」と嘆く親の鬱にどう接するか

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写真はイメージ(C)日刊ゲンダイ

「ボケて、こんなになってしまって」

 認知症を発症した親はしばしばこんな言葉を口にする。自分に対する嘆きともいえる。自分が認知症であることさえ忘れてしまう。そこまで症状が進行すれば、こうした嘆きはすっかり影を潜める。だが、その状態に至るまでは、耐えがたくなることが多い。

「こんな自分ではなかったはずだ」「記憶力、思考力が衰えている自分が悲しい」という思いが嘆きの言葉となって表れてくる。

 認知症においては、こうした「鬱」的な症状が約2割の人に認められるとされる。身体的な衰えはもちろんのこと、認知症による記憶障害、場所・時間が不確かになる見当識障害などによって生じる円滑なコミュニケーションへの不安などから、他人との関係が疎遠になったり、引きこもりがちの生活が続いたりする。

 その結果、だんだんと気持ちの沈んだ日々を送るようになる。さらに自分が社会の中、あるいは家族の中で「必要とされない人間なのでは?」と考え始めるようになる。「生き甲斐」がなくなってしまうのである。

 そんな親を前にして、子どもはどう対応すればいいのだろうか。

 第一に心がけることは「こんなになってしまった親」を100%受け入れることだ。「もう諦めろ」というのではない。このコラムでもたびたび述べてきたように、日光浴、散歩、肉などのタンパク質の摂取など、進行を抑えるための日課は重要だが、ともに重要なのが、「こんなになってしまっても、あなたが必要だ」というメッセージを子どもは親に対して発信し続けることだ。

 そのためには「昔話」も有効だ。親が自分たちを育てるためにやってくれたこと、親子で旅行に行ったときのことなどを話しながら、いかに親が自分たちにとって大切な存在であるかを改めてアピールするのだ。そうしながら、親とコミュニケーションの時間を持つ。親の記憶が不確かであっても、話を聞いてあげること。間違っていたとしても「そうだったかな」「言う通りかもしれないね」といった相づちにとどめる。コミュニケーションによって親が愉快な気分になるようにすることが重要だ。さらに重要なのは「生きていてくれるだけでうれしい」「いなくなったら悲しい」という自分の気持ちを伝えることだ。

 また、認知症のなり始めには、親の多くは自分が「必要ではない存在ではないか」という思いとともに「子どもにとって迷惑、負担になる存在ではないか」と考えがちだ。

「ここの費用は私の年金だけで足りているの?」

 ある知人はグループホームに入居していた母親から、施設を訪ねるたびにこう問われたという。

 50年近く看護師として働き抜いた女性である。彼女も「こんなになってしまって」が口癖だったそうだが、入居費用のことを問われるたびに知人は「大丈夫。すべてお母さんの年金ですんでいる。オレなんか、こんなところには住めないよ」と答えたという。すると母親はニッコリと笑ってこう言ったという。

「この部屋、私が死んだら、あなたにあげるから」

 認知症の彼女は自分が購入した部屋に住んでいると思ったのだろう。知人はこう答えた。

「ありがとう。うれしいね。でも長生きしてくれよ」と。

 母親は満面の笑みを浮かべていたという。親が「ただ生きていること」を生き甲斐にして機嫌よく暮らしてくれるのは、子どもにとっても喜びだ。親もまた子どもの喜ぶ顔をいつまでも見続けたいと願っているのだ。

和田秀樹

和田秀樹

1960年大阪生まれ。精神科医。国際医療福祉大学心理学科教授。医師、評論家としてのテレビ出演、著作も多い。最新刊「先生! 親がボケたみたいなんですけど…… 」(祥伝社)が大きな話題となっている。

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