がんと向き合い生きていく

医師が命を助ける努力を怠れば命が軽くなり過ぎてしまう

佐々木常雄氏
佐々木常雄氏(C)日刊ゲンダイ

 Kさん(70歳・男性)は、胃がんの手術を受けた後、1年間の抗がん剤内服も終わり、再発なく元気です。それでも手術前より8キロ減った体重は戻らないままです。昨年は奥さんに先立たれ、いまはひとり暮らしです。

 以前から高血圧があって降圧剤が処方されているため、2カ月に1回のペースで外来に来られます。そのKさんがこんなお話をされていました。

「私の家の隣に94歳の男性がひとりで暮らしています。先日、縁側で日なたぼっこをしていて意識を失っているのが見つかり、救急車で病院へ運ばれて点滴注射を受け、復活したそうです。熱中症だったのでしょうか。ただ、本人はそのまま死にたかったようで、仏壇には遺書が置いてあったらしいのです。あのまま死なせてあげることはできなかったものですかね? あの人は人付き合いが悪いんですが、以前、私に『自然に死にたい』と漏らしたことがあったんです。あのまま死なせてあげたかった気もするんですがね。今は病院から家に戻って、ケアマネさんが入って、時々ヘルパーさんに来てもらっているようです」

 私は「病院の救急室に運ばれて救命するのは医師として当たり前のことですよ」と答えました。 Kさんは2カ月後の診察の予約をして、帰り際に「元気で生きていたら、またお会いしましょう」と冗談を言って帰られました。

 意識なく救急車で病院に運ばれたら、医療者は救命のために努力するのは当然です。がんの末期で誰が見てももう助からないようなみとりの状況とは違います。

 たった一つの命です。生きたくなくなったから断食して死ぬ……もし、それをまわりが見過ごすとしたら、それは間違っていると思うのです。

 どのような理由があろうとも、自殺しようとする人を見つけたら、医師であってもなくても人は本能的に助けます。遺書があっても助けます。

 命を助けるのが医師の仕事です。もちろん、つらい状態を取り除いてあげるのも医師の仕事です。もし、命を助ける努力を怠るようであれば、命が軽くなり過ぎてしまうと思うのです。

 70年前の戦争の時に「おまえたちの命は羽毛よりも軽い」と言われ、神風特攻隊の若い命が失われました。それから約30年たって日航機ハイジャック事件が起こり、当時の福田赳夫首相が「人ひとりの命は地球よりも重い」と述べ、超法規的措置として犯人グループに身代金を支払い、収監されているメンバーなどの引き渡しを決めました。

「人ひとりの命は地球よりも重い」

 死刑制度について問うている加賀乙彦の小説「宣告」にもそうあります。かつての「羽毛の軽さ」から「地球よりも重い」までになったのです。 そしていまは、自己決定権、超高齢社会、生産性のない人間が増えている……などと言われ、何か命が再び軽くなってくるのではないかと気になるのです。

■生きていればこそ何かで喜びを感じることができる

 医学は、病気を治す、天寿を全うできる――それを目標に発展してきました。もし「本人の希望だから」といって、助かる命を助けることなく医師が命を軽く考えるようになったら、医師は信頼をなくし、社会は混乱し、お互いに誰も信じられなくなってしまうと思うのです。

 私が過去に関わったがん患者さん、そして「生きたい」と思いながら、無念にも亡くなった患者さんたちを思うと、生きている、生きていることが最も大切なこと――そう思うのです。

 人生はとてもつらい日々もあります。それでも、生きていればこそ何かで喜びを感じることもできるのです。相次ぐ台風、豪雨の災害で、残念ながらたくさんの方が亡くなられました。消防隊をはじめとした皆さんが必死で救命にあたり、助かった方も多くおられます。生きていることこそが大切なのです。

 後日、Kさんは隣の家から聞こえてくる老人の笑い声を耳にしました。ヘルパーさんと冗談を言い合ったのでしょうか。Kさんはホッとしたそうです。

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佐々木常雄

佐々木常雄

東京都立駒込病院名誉院長。専門はがん化学療法・腫瘍内科学。1945年、山形県天童市生まれ。弘前大学医学部卒。青森県立中央病院から国立がんセンター(当時)を経て、75年から都立駒込病院化学療法科に勤務。08年から12年まで同院長。がん専門医として、2万人以上に抗がん剤治療を行い、2000人以上の最期をみとってきた。日本癌治療学会名誉会員、日本胃癌学会特別会員、癌と化学療法編集顧問などを務める。

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