独白 愉快な“病人”たち

日本海を眺めながら死も考えた…早川史哉さん白血病を語る

早川史哉さん
早川史哉さん(C)日刊ゲンダイ

 今は4カ月に1度通院して血液検査を受けています。でも、日常生活に制限はなく、サッカー選手として体調管理をしているだけです。睡眠を8時間しっかり取り、バランスの良い食事を取る。今月15日からチームのキャンプトレーニングが始まります。今季はリーグ戦初ゴールが目標です。

 発病したのは4年前。3月に筑波大学を卒業してアルビレックス新潟に加入したのですが、チーム練習には1月10日から合流していました。

 その時のメディカルチェックでは問題なしだったのに、翌2月の終わり頃から疲れやすくなりました。朝、目覚めても体がズンと重く、節々が痛く、熱っぽい。食欲も落ちていきました。

 でも、「風邪かなあ。放っておけば治るだろう」と、チーム指定のドクターに相談したりしませんでした。

 もともと体は丈夫だと自信があって、それまでも風邪をひいても病院には行かず、自然に治していましたから。2月27日が開幕戦だったので、念願のプロデビューを控えての緊張なのかな、と思っていました。

 ただ、開幕戦でデビューした直後の疲労感は、それまでの人生で感じたことがないほどでした。1週間後の2戦目の夜は寒けでガタガタ震え、ベッドのシーツも寝間着も汗でびっしょりに……。 次第に首のリンパ節や両足の付け根の鼠径部が膨れ上がり、激痛が走るようになりました。「これは絶対におかしい」と思いながらも、レギュラーの座を手放したくない思いもあり、チームに言い出せませんでした。

 体調不良の恐怖と闘いながら4月になり、チームの予防接種の日のことでした。ついでに喉を診てもらって血液検査を受けたら、「白血病の疑いがある」と告げられたのです。

 ショックではありましたが、体調不良の正体がわかり、全身の力が抜けました。

 でも、そこから一気に日常が変化していきました。急性白血病と判明し5月に入院、骨髄穿刺やリンパ生検、髄注(抗がん剤を脊髄腔に注入する治療)……。注射針さえ嫌いだったので、本当に苦痛で恐怖でした。

 慢性ではなく急性だったと判明したときは、両親と3人で放心状態。「まさか……なんでオレが……」と。入院後、病室の窓から日本海を眺めながら「ここで死んでも悔いはないかな」と思ったこともありました。

 心身ともに一番つらかったのは、その年の11月の骨髄移植(造血幹細胞移植)の前後です。長期入院でただでさえ孤独にさいなまれていたのに、骨髄移植のために入った無菌室ではさらに孤独を感じました。奥に小さな窓があるだけの部屋で閉塞感があるのです。日中は家族と面会できましたが、無菌室の中と外で、電話を使って話すだけ。壁一枚あるだけでものすごく遠く感じ、寂しくて、苦しくて、どうしていいかわかりませんでした。

 体力もすでにかなり落ち、ただただベッドに横たわり、時が過ぎるのを待つしかない。移植直後は手のひらや足の裏の皮がむけたり、喉が荒れて話すのもつばをのみ込むのも、ものすごく痛くなりました。シャワーも体に当たる水が痛くて浴びられないほどで、無菌室にいた2カ月間は、生きているだけで精いっぱいでした。

 その後も一時退院や再入院を繰り返し、治療を続け、完全退院となったのは最初の入院から約1年後の17年6月でした。安堵感に包まれました。

 とはいえ、白血病に完治はなく、再発の可能性が常にあります。その恐怖と常に向き合いながら、その後はプロとしてプレーできる体にまで持っていかなければいけません。最初は立ったり座ったり、普通の生活を送ることからスタートです。散歩しただけでも息が上がり、脚がむくみ、疲労感は強烈でした。リフティングしただけでサッカーボールが重い。体の衰えに絶望感がいっぱいで、理想と現実の差に苦しみ、うつっぽくなった時期もありました。

■凍結されていたプロ契約の解除で火がついた

 走れるようになってからも、プロのレベルでやるには体を追い込む必要があります。「今は体をいたわるのを優先し、まだ突き詰めなくてもいいかな」と考えてしまう。そんな甘えを振り切るのにも時間がかかりましたね。

 18年11月、凍結されていたプロ契約を解除してもらったことがきっかけで心に火がつきました。そこからの道のりも簡単ではありませんでしたが、19年8月に公式戦のベンチに入ることができ、10月にはスタメン出場。最終的に、昨季は8試合に出場することができました。

 今振り返ると、早いペースで戻ってこられたと思います。白血病と一口に言っても、治療も経過も人それぞれ。同じ病気の方には、自分のペースで目標に向かってほしいと思います。

 病気になって本当に多くの方に支えられ、励まされました。ありがたさと同時にコミュニケーションの大切さにも気付き、周りの人の思いを深く考えるようにもなりました。人として成長し、視野が広がったなと思っています。

(聞き手=中野裕子)

▽はやかわ・ふみや 1994年、新潟市生まれ。小学1年からサッカーを始め、中学1年でアルビレックスジュニアユース(現U―15)入り。11年の「U―17ワールドカップ」で3得点をマークしてベスト8進出に貢献した。16年に当時J1「アルビレックス新潟」に加入し、開幕戦先発出場を果たしたが、直後に急性リンパ性白血病の診断を受けた。18年7月に復帰し、19年は公式戦8試合に出場。

関連記事