独白 愉快な“病人”たち

グラウンドに立ちたい…鈴木康友さん骨髄異形成症候群との闘い

鈴木康友さん
鈴木康友さん(C)日刊ゲンダイ

「やばい、神ってる! その日は私の大好きなミスチル桜井さんの誕生日!」

 そんな娘のひと言が僕の不安を一瞬で取り除きました。3月8日は、僕が臍帯血移植を受けた日です。

 一般的に移植手術をした日は「第2の誕生日」と呼ばれます。実際、血液型がO型からA型に変わりましたから、とても不思議な気持ちです。自分の体に60年間生きてきた血液とは違う血が流れている。

 自分の命があるのは、今も日本のどこかで元気に育っているお子さんの造血幹細胞のおかげです。その子とお母さんをつなげていた「へその緒」(臍帯血)に僕は命をつないでもらったのです。元気になればなるほど、恩返しのためにも大切に生きなければいけないという思いが強くなっています。

 体調の異変に気付いたのは2017年の夏でした。当時、僕は東京に家族を残し、単身赴任で四国アイランドリーグの徳島インディゴソックスでコーチをしていました。前期優勝を果たし、後期に向けて準備をしていた時、急に体のだるさに襲われたのです。何もしたくないほど体が重く、ノックも10本ほどで息が切れてしまう。

 そんな時、東京から妻がやって来て、一緒に出掛けた先の階段で息が切れて途中で上れなくなってしまった。妻があの時いなければ、もしかすると病気を放置して命がなかったかもしれません。彼女が受診を強く勧めてくれたおかげで命拾いしました。

 その2週間後に病院で血液検査を受けたら「ヘモグロビン4・0。よく立ってられますね」と言われて、その場で輸血となりました。極端な貧血状態でした。医師からは「精密検査をしないとわかりませんが、骨髄異形成症候群か、急性白血病か、再生不良性貧血の可能性が高いです」と言われました。

 翌日すぐに東京に帰り、紹介状を書いてもらった大学病院で検査を受けて判明したのが「骨髄異形成症候群」。造血幹細胞の異常によって血液が正常に造られなくなる病気です。治療法はいくつかあるけれど、完治には造血幹細胞移植しかないとのことでした。

「え? 血液のがん?」

 頭の中が真っ白になりました。

 念のためにセカンドオピニオンを受けたのが虎の門病院でした。白血病の症例数に加え、造血幹細胞移植の症例が多かったので、そちらで移植をお願いすることにしました。

 入院は18年2月半ば。告知から入院までの約半年間は徳島と東京を往復し、10日に1回ほどのペースで輸血をしながら、できる限りコーチを続けました。

 何しろ、移植をしても完治できるのは5割の確率。少しでも長くグラウンドに居たい。胸に込み上げてきたのは「またユニホームを着てグラウンドに戻りたい。40年間、野球をしてきたこの経験や技術を若い指導者に伝えたい、残したい。このままでは死ねない」という思いでした。

 医師によると、10人が移植を受けて7人が退院するけれど、2年以内に2人は再発や感染症などで命を落としてしまうそうです。

 移植そのものは臍帯血に存在する造血幹細胞を点滴するだけなので、切ったり縫ったりはしません。移植1週間前から抗がん剤による前処置が始まり、徐々に白血球を減らしていき、移植直前に強い薬で完全にゼロにするんです。そして「移植」を受けました。

 そこからの3週間が一番きつかった。38度を超える発熱、脱毛、味覚が変わってしまって何もかもまずい。吐き気で何も食べられないから体重も激減して……。ただ、妻がむいてくれるリンゴとバナナだけは味が変わらなかったので、あれには助けられました。

 造血幹細胞が骨髄で生着して新たな血を造り始めるまでは約3週間。その前後を含めて2カ月は無菌室で過ごし、退院まではトータル4カ月かかりました。

■家族が一丸となって乗り越えることができた

 待ちに待った退院。でもそこからは家族の方が大変でした。数カ月間は抵抗力がゼロなので、箸や茶碗といった食器はすべて熱湯消毒。エアコン、カーテン、じゅうたんに至るまでカビや細菌、ウイルスを除去しての生活です。パニックになりそうな妻を僕の代わりに励まし支えてくれたのは、落ち着いていていつも冷静な息子と、前向きでプラス思考の娘でした。本当に頼りになりました。

 移植の話が出た時から、医師に「家族の協力なくしてはできない治療だ」と言われていたので覚悟はしていましたが、本当にしんどかった。でも家族がそれぞれの役割を果たし、一丸となって乗り越えることができました。今年の3月で移植から丸2年になります。移植を受けてから「命の貴さ」や「自分にできることは何か」を考えるようになりました。

 僕の命を救ってくれたのは16年10月に生まれた男の子の赤ちゃんです。中部臍帯血センターから送られてきたという以外、お互いの情報は知らされていませんが、いつかまたユニホームを着てグラウンドに立てたら、ご両親へも恩返しになるかな……。

 今や日本は2人に1人ががんを患う時代です。僕のように比較的若くして病気になられた方は、闘病しながら今後の仕事に不安を抱いていると思います。

 僕が元気になって仕事復帰することで、未来に希望を持っていただけたらと、微力ながら勝手に思っています。 

(聞き手=松永詠美子)

▽すずき・やすとも 1959年、奈良県生まれ。天理高校卒業後、1978年に内野手として巨人に入団。西武、中日、再び西武と渡り歩き、92年に現役を引退した。その後、西武、巨人、オリックス、楽天の一軍コーチなどを務め、2017年には独立リーグの四国アイランドリーグplus「徳島インディゴソックス」のコーチに就任して優勝を果たす。現在は長男の母校である立教新座高校野球部非常勤コーチを務めつつ野球評論家として活動。今年、聖火ランナーとして奈良県を走る。

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