がんと向き合い生きていく

「私、食道がんと言われた」ケンカ別れした娘にメールを送った

佐々木常雄氏
佐々木常雄氏(C)日刊ゲンダイ

 ある地方の田舎で育ったDさん(56歳・女性)は、高校生の頃から「人間ってなんだろう」「命ってなんだろう」などと考えることが好きでした。そして、東京のある大学の哲学科に進学しました。

 しかし、大学ではバンドとアルバイトに明け暮れる日々でした。それでも卒業できて、建設会社に就職。面接試験では、「あなたは哲学科卒業ですか。最も役に立たない科ですね」と言われ、思わず「はい」と返事をしてその後はしどろもどろになってしまい、「この会社にも入れてもらえないな」と思ったのに採用されたのが不思議だったそうです。その会社の経理を担当してすでに30年がたち、今は課長です。

 Dさんはすでに両親を亡くしていて、結婚して5年後に離婚を経験し、1人で娘を育ててきました。その娘は美容師になりましたが、Dさんとは性格や好みが違っているためよくケンカをしたといいます。結局、ささいなことで口論したことをきっかけに娘は家を出て、今はメールでの連絡だけになっているそうです。

 Dさんは喫煙と飲酒の習慣があります。たばこは1日20本を約30年間、お酒は毎日ひとり晩酌を続けてきました。1カ月前から食べた物が胸につっかえる感じがあり、ちょうど行われた会社の健診を受けると、内視鏡検査で食道がんが見つかりました。

 後日、午前中からB病院を受診。担当医は消化器科の若い女性医師でした。

「進行した食道がんですが、肺や肝臓に転移はなさそうなので手術できそうです。手術はせずに放射線と抗がん剤治療という方法もあります。午後2時ごろに詳しく説明します」

 そう言われたDさんは昼食をとってから再び外来診察室を訪れました。

 担当医は、手術した場合の後遺症や合併症のリスク、入院期間、手術せずに放射線・抗がん剤治療を受ける場合の副作用、入院期間、そして治療法による生存期間の差がないことなどを図に描いて詳しく説明してくれました。

 Dさんはよく理解できた気もしましたが、説明を聞いている間は、「会社にどう話すか」「仕事の申し送りはどうするか」といったことが頭をよぎっていました。担当医に「手術か、放射線・抗がん剤かどちらを選びますか?」と尋ねられても、すぐには答えられません。すると最後にこう言われました。

「来週までにおうちの方とも相談されてきてください。あなたの命です。どうするかはあなたが決めてください」

■「あなたの命だから」と言われたが…

 Dさんは、自宅に帰って担当医の話を思い出します。

「先生の説明はよく理解できる。あなたの命ですからあなたが決めてください……それはそうかもしれないが、治療法は一番良い方法を先生が選んでくれればいいのに……」

「私はがんで死ぬのだろうか? この先、私の人生にいいことは何も期待できないのではないか?」

「それにしても『あなたの命です』って、そうなのだろうか? 命は私のものなのだろうか?」

 医師からたばこもお酒も止められて、夕食のおかゆさえ胸につっかかる……。ラジオから流れてくる演歌を聞いていたら、Dさんは急にみじめな気持ちになってきました。

「あなたの命? 自分が好んで生まれた命でもない。いま、食道がんのこの体に宿っている命って、本当に自分の命なの?」

 ふと、命のことを考えるなんて何十年ぶりだな……とも思います。そして、「あなたが決めてくださいと言われたけど、どっちに決めても私にはこの先の人生にいいことなんてなんにもない」と、また暗い堂々巡りが始まりました。

 そんなことを考えていたら、急に娘のことが気になってきて「私、食道がんと言われた」とメールを送りました。

 翌朝のことです。突然、娘が帰ってきて「母さん、私、一緒に病院に行って医者の説明を聞きたい」と言うのです。娘に会うのは3年ぶりでした。Dさんは急に霧が晴れたような気持ちになり、胸につっかえている食べた物がすべて下りていった気がしました。

 そして、娘に向かってこう言っていたそうです。

「私の命なんだから、私が決める」

■本コラム書籍「がんと向き合い生きていく」(セブン&アイ出版)好評発売中

佐々木常雄

佐々木常雄

東京都立駒込病院名誉院長。専門はがん化学療法・腫瘍内科学。1945年、山形県天童市生まれ。弘前大学医学部卒。青森県立中央病院から国立がんセンター(当時)を経て、75年から都立駒込病院化学療法科に勤務。08年から12年まで同院長。がん専門医として、2万人以上に抗がん剤治療を行い、2000人以上の最期をみとってきた。日本癌治療学会名誉会員、日本胃癌学会特別会員、癌と化学療法編集顧問などを務める。

関連記事